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第32話 花見弁当


度会町日向の旧家に伝えられた提重

度会町日向の旧家に伝えられた提重

花見弁当 神をもてなす供宴具

 風に舞う花びらを惜しみつつ、桜の季節が終わろうとしている。今年は、例年に比べて暖かく、雨も少なかったから、お花見に出かけた人も多かっただろう。三重県立博物館の西側に広がる津偕楽公園にも連日にぎやかな声がこだまし、心浮き立つ香りが屋台から漂った。
 ところで、お花見はいつごろから始まったのだろうか。そもそも花を愛(め)でるという行為は、人の歴史とともにあるのだろうが、花といえば、またお花見といえば、「桜」となったのは平安時代以降のことのようである。「万葉集」(奈良時代)と「古今和歌集」(平安時代)では、梅と桜の歌の割合が逆転するからだ。記録に残る最初の花見も平安時代。嵯峨天皇が神泉苑で催したものが初見とされている。そして、お花見が庶民のものになるのは江戸時代のこと。特に八代将軍の徳川吉宗が庶民の娯楽を作るためにと、隅田川堤や江戸の飛鳥山に桜を植えたことで、いっそう普及が進んだらしい。
 さて、今回紹介するのは、お花見には欠かすことのできない「花見弁当」である。正式には、持ち運びしやすい取っ手の付いた重箱として「提重」(さげじゅう)と呼ばれている。現在の度会町日向(ひなた)で江戸時代を通じて庄屋を務め、苗字帯刀を許された旧家から寄贈を受けたものだ。
 本体は、幅38センチ、高さ38.8センチ、奥行き18.4センチで、春慶塗を施した三段重ねと四段重ねの重箱がすき間なく収納できる。本体も漆塗りで、上部には重箱と同じ塗りを施した引き出しが設けられ、背面と両側面には、角木瓜(かくもっこう)形の窓が開けられている。また両側面の窓の上には、旧家の家紋である「下がり藤に橘」が朱で描かれている。螺鈿(らでん)などを用いた華美なものではないが、上品な色遣いと精巧な作りに、旧家の格式の高さと威厳が感じられる。
 この提重には、どのような料理が詰められたのだろう。落語「長屋の花見」では、貧乏長屋の人々が花見に行き、大家がかまぼこや玉子焼きとして用意した大根やたくあんを仕方なく食べる様子が語られていることから、かまぼこや玉子焼きは江戸時代から弁当の定番だったようだ。
 残念ながら、この旧家に弁当に関する記録は残っていないが、1801(享和元)年に醍醐散人(だいごさんじん)によって書かれた「料理早指南」の第二編には、花見弁当の献立が上中下の3例あげられている。最も上等なものには、玉子焼き、かまぼこ、蒸しかれい、さくら鯛(だい)、ひらめの刺身、そして椿餅やきんとんなどが入り、割籠(わりご)と呼ばれた別の弁当箱には焼きおにぎりなどが用意された。とても豪華な品々だ。ただし、献立は地域や伝統でも異なっただろうから、きっとこの提重には日向の豊かな自然の幸が凝縮されていたのだろう。
 本来、お花見は、春になり山から桜の木に下りてこられた田の神を料理と酒でもてなし、人間も一緒に食事をいただくことが趣旨だった。桜の木の大きさや本数の多さではなく、神が依代(よりしろ)とする木のもとで食事をすることが必要だったのだ。この提重も日向の野や山で家人とともに桜を見上げ、楽しげな語らいを聞いていたのだろうか。時代は移ろい、お花見の趣旨も変わってしまったようだが、その本来の姿は子どもたちにも伝えていきたいものだ。
 かつて人は自然と共にあり、自然への畏敬(いけい)を忘れなかった。提重などの民俗資料は、そんなメッセージを伝えていく教材としても活用が期待される。

(三重県立博物館 宇河雅之)

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