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第22話 暦付きの引札


新暦と旧暦が印刷された引札(県立博物館所蔵)

新暦と旧暦が印刷された引札(県立博物館所蔵)

暦付の引札 1年壁に 広告効果絶大

 新聞とともに毎日届けられる広告。朝は、「まずお買い得商品のチェックから」という方も多いだろう。広告の歴史は古く、少なくとも江戸時代の半ば頃まで遡る。もちろん、その頃は新聞の折込みではなく、お得意様を回って配ったり、商品に付けて配布するものだった。「引札」(ひきふだ)や「散らし」(ちらし)が本来の名前だ。
 さて、今回は、博物館が収蔵する引札(全97点)のうち、暦を大きく載せた4点を紹介したい。暦が示す年は、1909(明治42)年(写真右2点)と12年(写真左2点)で、大きさはいずれも縦54センチ、横38センチである。広告主の商店は、ともに現在の三重県松阪市内の住所で、右端から洋服屋・魚屋・味噌醤油屋・油屋が広告主であるが、印刷業者は地元松阪のほか名古屋や大阪とさまざまである。
 写真の引札は暦と広告主を組み合わせ、中央の広告主を後刷りしたものである。広告主ごとに後刷りにすることで、暦の部分の使い回しが可能となり、コストの面でも引札の普及に貢献した。
 暦を引札に利用する方法は、現在もカレンダー等で受け継がれているが、暦は、印刷も出版も明治政府の管理下におかれていたため、明治時代の初めでは考えられないことだった。しかし、1882年4月26日付けの「太政官布達第八号 内務卿連署」によって解禁となる。「本暦並略本暦ハ伊勢神宮ヨリ領布シ、一枚摺略暦ハ明治十六年暦ヨリ何人ニ限ラス出版条例ニ準処シ出版スルコトヲ得」というものだ。当時の人々にとって、暦は、今以上に重要で生活の中に溶け込んでいた。だから、見やすい一枚刷りの暦は特に重宝がられた。また宣伝主にとっても、捨てられず壁に一年間貼られる暦への広告は、とても効果的だったといえる。
 明治政府は、1872年に旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)への移行を強行したが、農家をはじめ当時はまだ旧暦を用いる人々が多かった。政府が暦を変えたからといって、国民の生活リズムがすぐに変わるわけではなかった。そこで、暦は新暦と旧暦を並べて掲載するものが多かった。広告部分を挟んで、右に新暦、左に旧暦という具合だ。
 ところで、写真左の1912年の暦の上には、太陽暦と大清暦という名称が記されている。この大清暦とは何か。大清とは、当時の中国の王朝「清」を意味している。清国は旧暦を使用していたため、このような名称を用いたようだ。それを証拠に大正時代の暦には「中華暦」と表現しているものもある。例外もあるが、おおよそ1912年の暦を境に、旧暦の表現に変化がおこっている。この暦が作られた1911年から翌12年にかけては、辛亥革命がおこり、また清朝が倒れ中華民国が成立するという激動の時代である。日本でも国民の関心は常に大陸に注がれていたようである。そういう状況下で、新たに、慣れ親しんだ旧暦に、それを用いる中国の国名をあてたのはなぜだろう。親しみを持ってのことだろうか、それとも国策だろうか、想像は尽きない。いずれにしても、世界が大きく動き始めた時期であることに違いはないようだ。たった一枚の引札の中にも、当時の世相が反映されている。これもまた庶民の生活を知る大切な資料だ。

(三重県立博物館 宇河雅之)

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