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第18話 400万〜300万年前のミエゾウ


ミエゾウの切歯化石(県立博物館蔵)

ミエゾウの切歯化石(県立博物館蔵)

ミエゾウときわめて近縁なコウガゾウの全身骨格(県立博物館蔵)

ミエゾウときわめて近縁なコウガゾウの全身骨格(県立博物館蔵)

400万〜300万年前のミエゾウ 古生物の「県ブランド」

 昔、三重にはゾウがいた。もちろん動物園のゾウではなく、野生のゾウである。
 われわれ人間が日本列島に住みはじめるよりはるか昔、人類の祖先がサルと分かれてまだ間もない400万〜300万年前ころの話である。ゾウの名は「ミエゾウ」。学名も「ステゴドン・ミエンシス」といい、正式に三重の名を冠したゾウである。かつては、シンシュウゾウという名で呼ばれていたが、2000年に国際動物命名規約が改定され、「ミエゾウ」という亜種名の先取権が認められたことから、「ミエゾウ」という名称に改められた。きわめて近縁と考えられるコウガ(黄河)ゾウの化石が中国で見つかっていることから、ミエゾウは、当時陸続きであった中国大陸から渡ってきて、日本列島にすみ着いたゾウであると考えられている。
 日本ではマンモスやナウマンゾウなど約10種の化石ゾウが確認されているが、それらの中でミエゾウは最大の大きさである。全身骨格は復元されていないが、前述のコウガゾウが全長8メートル、肩までの高さが4メートル程度であるところから、ミエゾウもほぼ同じぐらいの大きさであったと推定されている。太古の三重にこのような巨大なゾウがいたことは、県内で多数発掘されている化石たちが証明してくれる。最初のミエゾウ化石は、津市芸濃町の明(あきら)小学校の北、中の川河床で1918(大正7)年に発見された。採集された化石は、大きな臼歯のついた左下顎(がく)骨で、「明標本」と呼ばれ、「ミエゾウ」のタイプ標本(新種記載を行う際に、その生物を定義するための基準となる標本)となっている。発見された当時に東京科学博物館(現在の国立科学博物館)に寄贈され、現在も大切に収蔵されている。そのため、当館ではそのレプリカを収蔵している。
 写真の化石は、当館所蔵のミエゾウの切歯(せっし)の化石で、1977(昭和52)年に亀山市住山町の椋川河床で発見されたものである。本資料は、7個の部分に分かれており、各部分の長さの合計は196センチになる。最先端部と途中、歯根部にそれぞれ欠損があるため、完全であれば優に200センチを超える長さである。
 最も太い部分の断面は、長径が17センチ、短径が15.4センチの楕円(だえん)形をしている。ナウマンゾウやマンモスの切歯のように歯根部から大きく湾曲したりねじれたりせず、前下方に向かって真っすぐに伸び、先端部が外側に曲がっているのがミエゾウの切歯の特徴である。
 ミエゾウの化石は県内ではほかにも、亀山市、鈴鹿市、桑名市に分布する東海層群および伊賀市の古琵琶湖層群と呼ばれる地層から産出している。それぞれ東海湖、古琵琶湖とよばれる河川の氾濫(はんらん)原や湖沼に堆積(たいせき)した地層である。日本最大の湖である琵琶湖は、ミエゾウのいた時代には、現在の滋賀県ではなく、伊賀のあたりにあり、時代とともに北へ北へと移動し、約40万年前に今の位置に落ち着いた。
 400万年前に伊賀市の大山田付近にあった「大山田湖」がそのはじまりで、この古い時代の琵琶湖を「古琵琶湖」と呼んでいる。大山田の服部川河床からはたくさんのミエゾウの足跡化石も発見されており、ミエゾウは古琵琶湖や東海湖のほとりの水辺で群れをなして暮らしていたのだろう。
 県外でも長崎県、福岡県、大分県、島根県、長野県、東京都など広い範囲から見つかっていて、その場合も、もちろん「ミエゾウ」とよばれている。ミエゾウは、古生物界の「三重ブランド」である。                

(三重県立博物館 平Pみえ子)

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