トップページ  > 紙上博物館 > 富士講関係資料

第11話 富士講関係資料


小林家から寄贈された富士講関係資料の一部

小林家から寄贈された富士講関係資料の一部

富士講関係資料 富士信仰の教義伝える

 ここに紹介する富士講関係資料は、2005(平成17)年度に津市美杉町の小林家より寄贈された。江戸時代の富士講に関する文書類を中心にして、近現代のものも含めた総数382点の資料群である。
 富士山に対する信仰は古くよりあったが、近世に富士行者によって江戸市中を中心に組織されてきたものが富士講である。中でも、食行身禄(じきぎょうみろく)はその発展に大きな役割を果たした人物で、新田次郎の小説『富士に死す』の主人公としても知られる。
 食行身禄は1671(寛文11)年に伊勢国一志郡川上村(津市美杉町川上)に生まれた。幼名善太郎、長じては伊藤伊兵衛と名乗った。13歳で江戸に出て商人として成功すると同時に富士信仰に入り、やがて第6世の富士行者となる。信仰はますます熱心なものとなり、そして、ついに1732(享保17)年、富士山の烏帽子岩で断食入定して亡くなった。
 身禄の死後、富士講は爆発的に繁栄し、その教えは次第に整えられつつ引き継がれて発展していく。
1838(天保9)年には武蔵鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市)の小谷三志(こたにさんし)による不二道が創出された。三志は、身禄の生地を訪れて経典を奉納しており、これは伊勢川上を富士山に継ぐ第二の聖地とすることが目的であった。以来、川上を訪れる富士講も増え、100年、150年といった節目となる年には多数の人が参詣したようで、小林家や周辺の人たちの幼い記憶にあるという。
 小林家には、富士講に関係する多くの資料が残されており、これまで大切に保管されていた。身禄自身は、割合早くに江戸へ出たこともあって、資料群中には彼に直接かかわるものはほとんど認められないが、身禄の教えを聞書したものや和讃類など、教義に関するものが多く残されている。また、小谷三志からの書簡類からは、関東の不二道と身禄生家とのかかわりがわかり、いわば身禄以後の富士講のあり方を示す基本資料の一つとなっている。
 関東方面では、この身禄関係資料はよく知られており、研究者が何度か調査に訪れ、都内の博物館で富士講関係の展覧会があるときは資料借用に来るなど、たびたび利用されている。
 三重県史編さんグループも、かねてその存在には注目しており、04年に調査に入ることとなった。その折に所蔵者から資料保存に関する相談を受け、特に「地元で残したい。県外へは出したくない」という強い希望もあったため、三重県に寄贈いただくこととなった。
 資料群は現在、詳細な目録が作成されて整理され、専用の文書箱に収納し保管されている。今計画が進められている新県立博物館においても、重要な人文系資料の一つとして公開・活用されることが期待される。         

(県史編さんグループ 瀧川和也)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る