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第10話 射和の軽粉


上段が「ホツツキ」、下段左からつめ箱、説明書、製品箱

上段が「ホツツキ」、下段左からつめ箱、説明書、製品箱

射和の軽粉 松阪商人の活躍支える

 人間の美への追及は、化粧品を一つの産業に発展させた。今回紹介するのは、女性の白い肌を演出する「軽粉」(けいふん、「はらや」ともいう)と呼ばれた白粉(おしろい)の製造と販売に関(かか)わる資料で、実際にその製造業を営まれていた方から博物館に寄贈されたものの一部である。
 近代、三重における軽粉の生産には、主に直径15センチほどの小さな鉄鍋が45個も並ぶ専用の竈(かまど)が用いられた。この小さな鉄鍋へ、主成分である水銀に赤土と食塩を混ぜて団子状にした塊を入れ、それぞれに「ホツツキ」と言われた素焼きの碗(わん)をかぶせる。約600度で4時間ほど熱するとホツツキの内側に白い結晶が付着する。これが軽粉である。集めた軽粉は、「つめ箱」を使い製品箱に納められ、出荷に際して製品名や効能などを記した説明書が添えられた。
 さて、この軽粉の生産は、現在の松阪市射和町を中心に、室町時代から戦国時代にかけて最も栄え、全国にその名をとどろかせた。品質もさることながら、伊勢神宮の御師が各地の檀家(だんか)を回る際のお土産にしたことも理由の一つだ。
 では、なぜ射和が全国シェアを握る生産地となったのだろうか。それは、全国で有名になった軽粉の原材料である水銀の生産と関わりがある。
 現在の多気郡多気町丹生は、水銀の生産地として有名だった。『今昔物語』の鈴鹿峠を越えて伊勢から水銀を運ぶ商人の話などからも、その繁栄がうかがえる。
射和は、この丹生の地と櫛田川で結ばれ容易に原材料である水銀を入手することができた。また、軽粉を作る竈や水銀と混ぜる赤土は、射和にある「朱中(しゅなか)山」の土が最もふさわしく、ホツツキを作る土も射和に近い多気町荒蒔の土が使われたとの報告もある。
 つまり、射和の地は原材料をはじめ生産に適した環境が備わっていたのだ。そして、早くから神宮や公家などを本所とする同業者の組合である「座」を形成し、独占権を維持したことも、その繁栄の礎となった。
 しかし、江戸時代の初め頃(ごろ)から軽粉生産に翳(かげ)りが見え始める。主原料である水銀の生産量が落ち込んだ上に、中国から鉛を原料とした安価な白粉が移入された。そんな折、軽粉に新しい活路が見いだされる。梅毒やシラミの駆除に効果がある「薬」としての使用である。往時には及ばないが、その生産は1953(昭和28)年に最後の竈の火が消えるまで連綿と続けられた。射和の繁栄は軽粉がもたらした。そして、松阪商人の江戸での活躍を支えたのも、松阪木綿とこの軽粉が築いた富だと言っても過言ではない。
 近年、新しい道路の完成で「朱中山」はその大半を失った。日々、便利に、そして豊かになる生活の陰で消え去るものがある。記憶と道具だ。実は、今回紹介した資料のほかに一緒に整理箱に収められている小瓶がある。赤い土が入ったその小瓶のラベルは「朱中山」。そう、先人が生きた証は、次世代への引継ぎ準備を整えて博物館で静かに出番を待っている。                        

(三重県立博物館 宇河 雅之)

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