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第9話 あがり免除示す伊藤又五郎家文書


1644(寛永21)年の藩役人よりの覚

1644(寛永21)年の藩役人よりの覚

あがり免免除に示す伊藤又五郎家文書 津藩の政策が克明に

 県立博物館所蔵の伊藤又五郎家文書は、津藩初期の津町の様子を知ることのできる恰好の史料である。この時期、伊藤家は津町年寄兼津興大庄屋を務めていた。
その史料中に、1644(寛永21)年9月10日付けの津城代藤堂仁右衛門などの藩役人からの命令を岩田村を含む支配下の村々が承知したという内容の「覚」がある。
 それは三か条目あり、一か条目が「辰年(寛永17年)のあがり免(年貢率上昇)は蔵入地(藩直轄地)・知行地ともに免除、ただし、四つ一分(41%)より低い年貢の場合は、その年の作毛の善悪により、蔵入地・知行地ともに見立てをする」とある。
 二か条目は、「当年より知行地は検見奉行を出さないので、年貢は作毛に応じて給人(きゅうにん、藩主から知行地を与えられた家臣)が決めるようにすること。そして、もし百姓が自由気ままに申して田を捨て置き、訴訟をし、麦を蒔(ま)いて年貢を延引するならば、庄屋・年寄はけしからんことだ。また、給人が見損ないをした場合は、大庄屋を通して断りをするように」とある。
 三か条目は、「走り百姓(逃亡する百姓)がいた場合は、先年の法令のようにその組で年貢や諸役を務め、もとの人数ほどに百姓を居付かせよ」とある。
そして、「右のようなことを蔵入地・知行地の小百姓まで得心させるようにし、もし百姓がいいかげんなことを言うようならば、その組の大庄屋の落ち度とするので、しっかりと申し付けるように」と書かれている。
 特に一、二か条目に注目すると、年貢率上昇が免除され、知行地の年貢の決定は給人であったことがわかる。
ところで、津藩の藩政史である「宗国史」には、「覚 津奉行条令」と題された右の内容と同様の触が掲載されている。そこには、「右ハ承応二年巳ノ春伊賀奉行衆へも書き出し申され候」と、この触が1653(承応2)年に伊賀国奉行衆に対しても発給されたように書かれている。しかし、関係の文書も発見されておらず、実際に触れられたのか疑問が残る。また、「宗国史」の記述からは、編集段階でこの触の発給時期を承応2年と考えていたように思われる。それは、この触の記載位置や53年が巳年で、その前年(承応元年)は辰年であるので、そのことと関係あるのかもしれない。
 さらに、「宗国史」には、この「覚」発給前日、すなわち寛永21年9月9日に、伊賀国加判奉行らから伊賀城代藤堂采女らにあてた書状が掲載されている。
この書状には、「三分免(3%の年貢率の上昇のこと)は蔵入地・知行地ともに免除、知行地は給人と百姓と相談の上で年貢を決めるようにすること、(中略)との殿様の御意があった」とある。伊賀国の場合、知行地の年貢は、給人と百姓との相談で決めることとなっているのが特色がある。前述した伊勢国へ発給された史料と日付、発給人、宛先の違いがあるが、明らかに伊賀国と伊勢国へ出された指示が異なっているのである。
 ここからは、「宗国史」など編さん物の記述にも誤りがあったりするので、史料を用いる際には必ずその史料を評価検討する必要があるが、伊勢・伊賀国両国の一体化政策(三分免免除)と知行地での年貢決定方法に地域差があることが指摘できる。このように津藩は、地域特質を十分に踏まえた上での政策や領国経営の姿勢が見られるのである。
         

(三重県史編さんグループ 藤谷 彰)

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