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第2話 東海道分間絵図


東海道分間絵図 亀山〜関付近(県立博物館蔵)

東海道分間絵図 亀山〜関付近(県立博物館蔵)

東海道分間絵図 東西日本の結節点

 三重県を紹介するとき、どのようなキーワードが思い浮かぶだろうか。伊勢神宮、海山の豊かな自然、熊野古道、本居宣長、忍者、新鮮な海山の幸、松阪牛、真珠、鈴鹿サーキットなどなど数え上げればきりがない。それほど三重には多彩な特色がある。博物館の展示や活動のテーマを考えるときも、このような三重の多彩な特色が重要なポイントとなる。
 少し堅い話になるが、三重の歴史的な特色のひとつに東西日本の結節点という性格をあげることができるだろう。古来、三重の地は畿内の都と東国を結ぶ交通の要衝として、多くの人・物資・情報・文化がこの地を通って東国に向かい、また、都に集まったのである。これらが行き交った道が「東海道」である。特に、江戸時代には江戸幕府の道中奉行所管の五街道の筆頭とされ、江戸と京大坂を結ぶ陸上交通の大動脈としての役割を担った。
「東海道分間絵図」(ぶんけんえず)は、東海道の全道中、江戸―京都間126里6町1間を「三分壱町之積り」つまり約1万2000分の1の縮尺で描いたもので、作者は最初の正確な江戸図「江戸分間図」を作成した遠近道印(おちこちどういん)、浮世絵師・菱川師宣が道中風俗画を書き加えている。1690(元禄3)年以降、木板摺(ず)りの折本五帖構成のものが数回出版され一般に流布しているが、当館所蔵のものは肉筆で丁寧な彩色が施された幅29センチ、総長35.4メートルに及ぶ一巻の太い巻子(かんす)仕立てである。
 街道を中心に町並・寺社・一里塚などと背後の風景が描かれ、街道筋の宿場名・村名、また要所には方位や枝道、路程などが書き込まれている。
桑名から鈴鹿峠に至る三重県内の東海道の様子は長い絵図の後半に収録されている。桑名では海に突き出した桑名城と七里の渡しを行く白い帆の大きな御座船や物資輸送の小型の船が描かれ、四日市・石薬師・庄野の順に京へ向かう道中には鈴鹿の山並を背景とする町並や松並木の間を歩む武士や僧侶、庶民などの旅姿がみられる。亀山では亀山城の南を通過する東海道の江戸寄りに江戸口門と番所が、京寄りには京口門と思われる部分に番所が描かれている。
 その間の街道内に書き込まれた細く屈曲する経路は実際の街道を縮尺して描いたもので、現在の街道復元地図や旧街道の現状と比較してもかなり正確に書かれていることが判る。
亀山と関の間には挟み箱・毛槍を先頭に鉄砲隊・弓隊以下の参勤交代の長い隊列を組んだ大名行列が江戸に向かって進み、その先頭付近に描かれた野村の一里塚のうち北側のものは今も旧街道の路傍に現存し、国の史跡として保存されている。
 東海道を描いた測量絵図としては、1806(文化3)年に幕府の道中奉行によって製作された「五街道分間延絵図」の「東海道」が有名であるが、それより100年以上も前につくられた「東海道分間絵図」は、三重を通っていた江戸時代前期の東海道のさまざまな景観や旅する人々の姿を現代の私たちにビジュアルに物語ってくれるのである。

(三重県立博物館 杉谷政樹)

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