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衛生政策の徹底と民俗―菰野町周辺の産育習俗の調査


民俗資料調査報告書草案(菰野町郷土資料館保管・近藤家文書)

民俗資料調査報告書草案(菰野町郷土資料館保管・近藤家文書)


 現在、「三重県史」民俗編の編さんに伴って各種資料の調査を行っており、その中で、いくつもの貴重な民俗資料が発見されつつある。菰野町郷土資料館保管「近藤謙蔵氏関係資料」中の「妊娠出産育児ニ関する民俗資料調査報告草案」という資料も、その一つである。
 近藤謙蔵氏(1865〈慶応元〉年生)は、菰野地域の歴史研究家で、1941(昭和16)年発行の『菰野町史』の編集主任を務めた。同郷土資料館には、「菰野町史」編集関係を中心に多くの資料が保管されている。
 発見された資料は、表紙に「昭和十年十月 中央社会事業協会・恩賜財団愛育会嘱託」と記されている。愛育会は、34年に皇太子の生誕を記念して創設された団体であるが、翌年6月、社会事業協会と共に全国47府県および樺太・台湾・南洋諸島を対象に「妊娠・出産・育児ニ関スル民俗資料調査」を実施した。近藤氏は、三重県の調査嘱託者のうちの一人であった。調査結果は、75年に「日本産育習俗資料集成」(以下「集成」とする)としてまとめられているものの、報告書の草案が見つかったのは県内最初であった。「集成」は編集の手が加えられて表現がかなり異なっているので、その意味で貴重な資料である。
 資料の書き出しには、「三重郡及隣接部西部地方農山村ニ於ける」とあり、記載内容の多くを菰野町大字菰野の「産婆業」の女性から聞き取ったと記されており、現菰野町周辺の産育習俗の調査であったことが分かる。
調査は、25の設問に回答する全国共通のアンケート形式のものであるが、すべてを紹介することはできないので、「胞衣(ほうえ)・臍緒(へそのお)の処置に関する習俗」という設問についてのみを取り上げてみた。
胞衣とは、出産後母体から出るアトザン(後産=胎盤のこと)で、エナ・ヨナ・ヤナなどと呼ばれた。自宅出産が主流だった時代、アトザンの処置にはさまざまな方法があり、民俗学上の大きな関心事であった。
 近藤氏は「胞衣=往事、前項初湯の汚水と共に日蔭の軒下に穴を掘りて埋めしが、維新後衛生取締の行われし以後ハ、必之(かならずこれ)を墓地ニ埋棄することとなれり」と記している。つまり、もともとアトザンは、日が当たらない軒下に穴を掘って埋めていたが、墓地に埋めるように変わったというのである。
その変化のきっかけとなった「維新後衛生取締」とは、どのようなことだろうか。1879年(明治12)年、各地でコレラが発生し、三重県でも多数の死者を出した。そうした中で、県は伝染病予防策を強化し、91年4月には「市町村内衛生組合標準」を出した。これは、市町村内に衛生組合を設けて規約を定め、それを守ることでコレラなど悪疫予防を行おうというものであった。その規約に盛り込むべき一文に「産時ノ汚穢物及び胞衣ハ人家ニ接近セサル一定ノ場所ニ於テ焼却又ハ埋却スルコト」と示されている。県内では、衛生組合が多数誕生し、菰野町内でも当時の菰野村東組衛生組合規約が確認されている。また、先日、磯部村迫間(現志摩市)の衛生組合規約も見た。そこには、「産時ノ汚穢物及胞衣ハ人家接近ノ処ヘ捨サル事」とあり、ただし書きに「共有墓地の片隅」と見え、目標を立てた場所にアトザンを廃棄するよう記されていた。
 「集成」によれば、家の敷居際や床下、日陰の軒下、海に沈めるなどという、さまざまな処理場所の報告も見られる。また、埋める場所が悪いと夜泣きするとか、生まれた子が字や裁縫が上手になるように、筆と墨、針・糸・はさみなどを添えて埋めるなど、アトザンに関するまじないや迷信の報告も多く確認できるが、県内全体的に見るとアトザンの処置場所を墓地とする事例が非常に多い。近代以降の衛生政策の徹底によって変化していったようであり、地域ごとにその経緯を明らかにしていくことも民俗学の調査では重要である。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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