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「磯シャツ」契機は出稼ぎ―大正期の県衛生課『蜑婦ニ就テ』


磯シャツ姿の海女を撮影した絵葉書

磯シャツ姿の海女を撮影した絵葉書


 毎年、県では統計書・白書・研究及び調査報告書・事業計画書・要覧など、多くの行政資料を発行している。それらは、1986(昭和61)年5月30日の「三重県行政資料の収集管理に関する訓令」の制定やその後の改正によって、情報公開室がその収集管理を行うことになっており、行政資料の収集に一応の道筋が設けられている。しかし、それ以前に作成されたもの、つまり明治時代の三重県誕生以来、85年までの資料は、比較的新しい60、70年代のものであっても残っていないことも多い。また、この間に組織改編も行われており、作成した事実すら分からなくなっていて、県外の図書館や大学、偶然調査をさせていただいた個人宅から見つかることがあり、時には古書店から購入しなければならないこともある。
 先日、皇學館大學史料編纂所所蔵の鈴木敏雄旧蔵資料の中で『蜑婦(あま)ニ就テ』という報告書を発見した。「蜑婦」とは「海女」のことで、以前はこの表記がよくなされた。報告書は161ページからなり、発行年は1921(大正10)年9月となっている。この時代の海女の実態について記した貴重な資料であるが、当方でも、これまでその存在を把握していなかった。発行者は三重県警察部衛生課で、内容は同課が20年度に志摩郡御座村を中心に7か村を実地調査した際に作成した『衛生保健調査 第二輯』の中から海女に関する記述を抜粋してまとめ直したものである。したがって、『衛生保健調査 第二輯』は更にボリュームのある調査報告書だったであろうが、その実物は確認できていない。
 今回は、この資料の中から「磯シャツ」の話をしてみよう。海女の潜水スタイルの二大技術革新と言われるものには、潜水メガネとゴム製のウェットスーツの着用があげられる。このうち、ウェットスーツは戦後になって着用が始まったのだが、古くは腰巻きのみで上半身は裸体で作業し、大正時代頃からは写真のように「磯シャツ」という白木綿製の上着を着用して潜水するようになったと言われている。磯シャツやウェットスーツの利点は、水中作業での体温放散の防止にあるが、報告書には磯シャツの着用の起源について下記のような興味深い記載がある。「往時ハ[磯シヤツ]ヲ用ヒズ上半身ハ裸体ノ侭(まま)潜入シタルモ、朝鮮ヘ出稼キヲナスニ至リ、風俗上ノ考慮ヨリ[シヤツ]ヲ着用スルコトニナリタリ、爾来郷村ニ於ケル作業ニモ[シヤツ]ヲ用フルニ至レリ…」。つまり、磯シャツの着用は志摩地方の海女が朝鮮半島の沿岸まで出稼ぎに行くようになって、風儀上の問題から着用するようになったというのである。
 この一文からは、次のようなことが想像できる。すなわち、志摩地方の海女による朝鮮半島沿岸への出稼ぎは、1895(明治28)年には始まっている。この時期は日清戦争で日本が優勢に立ち朝鮮に対する支配が強まる時であり、こうした歴史的背景もあったと思われる。また、同時に幕末以来の不平等条約の一つであった治外法権の承認がイギリスとの通商航海条約の締結(94年)によって解消され、日本の国際的地位が向上した時期でもあった。明治政府が裸体の習慣を早くから禁止していたように、欧米にならって「一等国」をめざした日本にとって、海女の朝鮮半島沿岸での裸体による漁業従事は問題とされ、どこからか上半身を隠して就労するよう指導が入ったのではないだろうか。
 残念ながら、これを裏付ける資料は見つかっていないが、報告書のとおり、磯シャツの着用が朝鮮への出稼ぎをきっかけとして広まったものであれば、その起源が大正時代とされている現在の通説よりも、かなり早まりそうである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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