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計測、地価調査を担う−地租改正と公量人


「公量人勤務規則」の県布達

「公量人勤務規則」の県布達


 2月ほど前、県立図書館から「公量人」についての質問があった。公量人とはあまり聞き慣れない言葉であるが、県立図書館武藤文庫の中に関係史料が見られ、どんな役職かを知りたいという。武藤文庫は、元三重大学教授・武藤和夫氏の蔵書で、三重県の近世期以降の史料が多く含まれていて、県史編さん事業でも参考にさせてもらっている。
  公量人に関する史料は、1874(明治7)年2月付けの文書で、安濃郡小野平村(現・津市)の7人に対する県からの公量人申し付け状である。これまで、各所で明治初期の史料調査を実施しているが、あまり関係史料を見掛けず、公量人がどういった役職か考えたこともなかった。ただ、この時期、明治新政府は財政を安定させるために地価に基づく統一的な税制を確立する地租改正事業を推進しており、「公量」という文字から土地や収量等を計測する人ではないかとは推察できた。しかしながら、地租改正の参考図書や歴史辞書類を見ても公量人に関する記述はなく、質問に即座に対応することができなかった。
  そして、後日、三重県が73年9月6日付けで「公量人勤務規則」を布達していることを知り、その布達に当たってみた。やはり地租改正事業に伴うものであった。地租改正が行われると地価に対して税金が掛かることになり、土地の計測などに不公平がないように各村で「公量人ヲ公撰シ」て、その任に当たらせたのである。勤務規則では、公量人は「決シテ偏頗ノ私ナク忠実其任ヲ務ムベシ」とし、「不公平ヲ為ス時ハ、全村ニ対シテ至当之厳責ヲ受ケルトモ決シテ辞避スヘカラザル」旨の誓書を事前に出すようにも定められていた。こうした公量人の職務は、74年8月に出された「地租改正人民心得書」にも見え、「正副戸長公量人共篤ト調査ノ上……地価取調帳相仕立」とある。すなわち、地租の最も基本となる地価の取調にも重要な役目を果たしていたのである。
  ところが、76年4月18日に合併して現在の三重県域に含まれる度会県の74年「地租改正ニ付説諭書」や75年「地租改正係出張所心得書」を見ても、公量人が設置された様子がうかがえない。また、他府県の「地租改正心得書」をいくつか調べてみても公量人を置いた府県は確認できなかった。当時の府県すべてに当たったわけでないので断定はできないが、公量人の設置はどうも三重県特有のものではなかったと考えられる。そのため、地租改正の参考書や歴史辞典類に公量人の記述がなかったのかもしれない。
  地租改正事業は、石高・米納という税体系を地価・金納に大きく変える政策であり、一般農民の協力なしでは実行できるものではなかった。地租改正事業を農民に納得させる手立てとして、それぞれの県でいろいろな推進体制を考えた。度会県では、事業着手に先立って大区小区制を廃止し20区制とし、戸長・副戸長を官選から民選に切り替えた。さらに組頭も復活し、「正副区戸長及組頭、担当人等」で地租改正事業に臨むこととした。
  それでも、地租改正事業に対する農民たちの反対意見は強く、76年12月には三重県で一揆が起こった。いわゆる伊勢暴動で、東海各県にも波及したため、最近の研究では「東海大一揆」とも言われるものである。この一揆の背景には、地域の度重なる災害や米価の下落など、さまざまな要因があるが、地租改正事業に伴う諸経費のほとんどが農民負担ということも要因の一つであった。ちなみに、公量人の手当としても、第2大区(現四日市市・三重郡)の例では「出務一日米二升、臨時集会米一升」を負担したらしい。
  なお、前述した小野平村の公量人たちも、村の農民たちと共に一揆に参加した。任期切れであったのか、地租改正には反対だったのか、あるいは一揆の流れや勢いのせいか、いずれにしても、地租改正をめぐる動きは三重県民に大きな影響を与えた。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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