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藩内の反発で失脚か−桑名藩郡代・野村増右衛門の取り立て


野村一件聞書写を綴った「鶯宿雑記」

野村一件聞書写を綴った「鶯宿雑記」


 1710(宝永7)年、桑名藩主久松松平氏は越後国高田へと移封となった。その背景には、桑名藩士の野村増右衛門事件が幕府に知れたからだと言われる。この事件は、同年3月に郡代であった野村増右衛門に公金横領などの嫌疑がかけられ、5月に一族44人をはじめ、関係のある藩役人370人余が死刑・追放・罷免された事件である。しかし、これについては、「野村奸曲録(かんきょくろく)」などの物語風の史料はあるものの、藩が関係史料を湮滅(いんめつ)したと言われ、その真相は謎のままである。
今回、「鶯(おう)宿(しゅく)雑記」という史料をもとに、桑名藩の「分限帳」を併せ見ることで、野村増右衛門の召し抱えや昇進経過を追ってみよう。「鶯宿雑記」は、文化年間(1804〜18)に桑名藩士駒井乗邨(のりむら)により執筆されたもので、569巻289冊からなる。現在、国立国会図書館所蔵で、『国書総目録』にもその内訳が記されている。その中に「野村一件聞書写」があり、増右衛門の親の出自から、1711(宝永8)年3月28日の桑名城引き渡しの記事までが書かれている。文末には「この壱冊密に借用、心得に写置候、他見堅く無用に致すべき事」とあって、この聞き書きは公表されないことを前提としたものであった。
  野村増右衛門の親は、野村仁右衛門といい、地方(じかた)30石3人扶持の代官で、員弁郡嶋田村(現いなべ市)に在宅しており、その子仁左衛門(後に増右衛門と改名)も8石2人扶持で郷手代を勤めていたとある。このことを「分限帳」で確認すると、1685(貞享2)年にはこの記事と同じ役職・禄高を得ている。そこから、この記事は85年に近い時期のものであることがわかる。それ以前の1650(慶安3)〜51年頃の「分限帳」では、父・仁右衛門は8石2人扶持で手代、1670(寛文10)年には8石3人扶持で代官となっている。野村家の登用は、父・仁右衛門が定綱(さだつな)時代に手代として召し抱えられて後、代官への登用や禄高加増がなされた。そして、70年以降には、子の仁左衛門も召し抱えられたと推測される。なお、野村家は在地代官として取り立てられており、もともとは嶋田村の庄屋であった可能性が強い。
  仁左衛門から改名した増右衛門は、1696(元禄9)年には20人扶持であったが、同年暮には新知180石、桑名赤須賀中町に屋敷を与えられた。また、翌年には300石に加増され、三之丸北大手角に屋敷が移った。さらに、1700年には物頭(ものがしら)となり、50石を加増されて5か年勤めた。そして、分限帳によると、1705年の時点で禄高750石で郡代を勤めている。元禄から宝永期にかけての15年間が増右衛門の全盛期で、「鶯宿雑記」ではこの期間の昇進を評して「老分之衆・諸士諸役は申すに及ばず、門前に市をなし候」と書き記している。
増右衛門の事蹟は、『桑名市史』には手伝普請・新田開発・河川工事・神社仏閣造営修理・道路橋梁修復・山林造成・溜池造築など、枚挙に遑(いとま)がないと記されている。また、『四日市市史』によれば、1708年に財政難に際し家中の俸禄減額の触れを増右衛門が代官・手代中宛てに発給するなど、藩政の中心人物として急進的な改革も行っている。
  冒頭の横領事件に関する史料はなく、その真偽のほどはわからないが、このように急激に取り立てられて次々に昇進した彼の急進的な藩政改革には反感も多く、結局、失脚させられてしまったのかもしれない。

(県史編さんグループ 藤谷彰)

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