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商業地は当時も高値―「中世都市山田」の住宅事情


1492(延徳4)年の山田屋敷売券写(坂口 茂氏蔵)

1492(延徳4)年の山田屋敷売券写(坂口 茂氏蔵)


 外宮の門前として栄えた山田は、「道者(どうじゃ)」と呼ばれた参宮者の増加に伴い、戦国時代以降、急速に都市化が進んだとされている。
 山田は、町を東西に貫く参宮道と、散在する神官や御師(おんし)らの屋敷を中心に、複雑に入り組んだ「世古」と呼ばれる路地を形成しながら発展し、それらの道沿いに、比較的小規模な、長方形の屋敷地割りの町場が造られていった。今回は、「中世都市山田」における住宅事情を、当時の売券や文書から見てみることにする。なお、現在では「やまだ」であるが、中世当時は「ようだ」と呼ばれていた。
 さて、1553(天文22)年ごろのことである。神宮文庫所蔵の『幸福大夫文書』によると、外宮の御師幸福(こうふく)虎(とら)勝(かつ)は、山田地内で新たな屋敷地の購入を進めていた。本人は甲斐国にあって病気療養中であったことから、購入の直接交渉は子息の幸福光(みつ)広(ひろ)が当たっていた。
 物件は、幸福家の本宅のあった八日市場に所在したと考えられる、参宮道に面した間口3間、面積35・5坪の屋敷地である。奥行きの記載はないが、単純計算で12間弱の、かなり長細い区画の屋敷であったと思われる。それを、表側25・5坪と奥10坪に分けて購入しようとしているのだが、注目されるのはその坪単価である。
 まず、屋敷地の大半部分を占める表側の坪単価は2貫500文。当初売り手側は坪3貫文を提示していたが、幸福虎勝より「合力と思し召し」として懇願した結果、どうにか500文の値引きを勝ち取っている。また、奥の10坪分は更に値引きされ、坪1貫500文となっている。実は幸福家側としては、すべて坪1貫500文として購入したかったが、売り主と折り合わなかったようである。屋敷地を分割する形で購入したのも、そうした値引き交渉の結果と見られる。
 幸福大夫が購入しようとした今回の物件は、総額にして80貫文に近い金額になったはずである。有力御師として、甲斐の武田氏とも師檀関係にあった幸福大夫であるが、さすがに資金的に無理があったようで、金策に苦心している様子が、遣り取りされた手紙からうかがえる。ただ、本宅に加え、わずか間口3間の屋敷地を、なぜ無理をしてまで購入しなければならなかったのかについては不明である。
 それにしても、当時、田地1反が4〜5貫文で売買されていたことを考えれば、この坪単価はいかにも高額である。それもそのはずで、当時の八日市場は、山田内でまさに一等地であった。
 「下市」と呼ばれていた岩淵の三日市に対して、八日市場は「上市」とも呼ばれ、早くから市がたち、戦国時代には魚座や米座などの見(み)世(せ)棚(だな)が立ち並ぶ、山田の商業地であった。
 戦国時代の山田では、頻繁に屋敷地の売買が行われており、他の地域では類例のないほどの膨大な屋敷売券が残されている。それら屋敷売券から山田内の各町場の坪単価を算出すると、やはり八日市場が突出して高額であり、周辺に行くに従って坪単価は急激に安価となっていく傾向があった。商業的価値の高い場所の地価が高額となるのは、今も昔も変わらないということであろう。
 それに対して、上之郷と呼ばれた現在の浦口周辺では、数百文程度が相場であったようで、中には的場南世古の事例では、わずか坪30文の物件もあったほどである。戦国時代の上之郷は、まさに山田の「郊外」と言える地区であったと言える。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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