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節分行事あれこれ 薄れる「年頭」感覚−風習、呼び名・・・地域で特色


「節分」について記された島ケ原尋常高等小学校の郷土教育資料

「節分」について記された島ケ原尋常高等小学校の郷土教育資料


 明後日2月3日は節分で、各地で豆まきが行われる。スーパーでは節分コーナーが設けられ、恵方巻の注文を承っている。本来「節分」とは、四季の移り変わる立春・立夏・立秋・立冬の前日の意だが、今は立春の前日だけを言う場合が多い。
節分と言えば「鬼やらい」であるが、日本では宮廷行事として鎌倉時代まで大晦日の夜に行われた。かつては立春から新年が始まると考えられており、節分は新年を迎える行事として重んじられていたわけである。京都では、15世紀半ば(室町時代)に今のように立春前夜に「鬼は外、福は内」と唱え、家ごとに豆をまいた風習が存在した。これが江戸時代になって、迎春の厄払い行事として諸国の寺社や家庭に節分祭や豆まきとして広まっていった。
 前置きが長くなったが、今回は既存の民俗調査報告を頼りに、三重県域の節分行事について種々紹介したい。
 まず「節分までは旧年」という暦意識の存在を象徴するものとして、県内各地でこの日を「年越し」とか「豆年越し」という呼び方がある。特に志摩地方や南伊勢町の沿岸諸浦では、新暦に合わせて大晦日に豆をまくようになったらしく、地元の人の話では、今でもその風習は残っているという。また、以前は大晦日に豆まきを行っていた地域も多い。1939(昭和14)年に島ヶ原(現伊賀市)尋常高等小学校で作成された郷土教育資料『郷土に於ける民俗生活』には、「節分は多くは十二月にあったが、太陽暦を用ふる様になってからは二月三日が之に当たってゐる」とあり、新暦への改暦をきっかけに、旧暦のまま2月に豆まきが行われるようになったことが分かる。
 このほか、豆を炒る際に稲作の豊凶や一年の天候を占う「豆占(まめうら)」を行った地域がある。旧松阪市内では、豆木を燃やしてこれらを占う地区が報告されている。また、旧宮川村では、豆を灰に入れて、焦げ具合で各月の天候を占ったようである。このように新年の吉凶占いをすることも年越し行事の残滓(ざんし)であろう。ただ、改暦によって立春イコール新年という感覚が薄らぎ、節分が年頭行事であったことを意識される方は少なくなった。
 次に、節分行事の地域的な特色を見てみよう。
 その一つに、節分の夜、鰯(いわし)の頭などを焼いて柊(ひいらぎ)などの木に刺して戸口や窓の外に挿す「ヤイカガシ(焼嗅)」というものがあり、県内の多くの地域で見られる。柊のとげや魚を焼く強い臭気で悪霊を追い払おうとするものである。魚は鰯以外にタツクリが多いが、漁業が盛んな志摩地方から東紀州では、ボラ・エビ・サンマなどバラエティに富む。また、木も一般には柊や豆木が多いが、この地域では椎・ウバメガシ・竹・杉・檜が用いられた。
 さらに、「ヤイカガシ」には、地域ならではの呼び名がある。志摩地方の大部分では「アラクサ」といい、旧嬉野町・松阪市・宮川村や南伊勢町の沿岸諸浦では、「アクサ鰯」、東紀州では「オニノメツキ(鬼の目突き)」、名張市や旧青山町では「イタイクサイ」、旧島ヶ原村・阿山町内では「オニカザリ(鬼飾)」と言った。かなり明確な分布圏が確認できる。
 なお、豆を「打ち(まく)豆」と「数える(食べる)豆」に区別する地域も多数ある。熊野灘沿岸では、ほとんどの地域で打ち豆に小石を混ぜる。引本浦(紀北町)ではこれを「鬼の目つぶし」、方座浦(南伊勢町)では「鬼の目突き」と言った。これに対し、伊賀の旧阿山町内ではタツクリを混ぜる風習が記録されている。また、数える豆は、年齢より1粒多く食べる地域が多い。これについて、伊賀地方では1粒を「厄払い」とか「鬼の豆」と言って、肩越しに投げ、残りを食べる習俗が報告されている。
 このように、同じ三重県内でも節分行事は多様である。しかし、こうした風習はどんどん変化し、姿を消している。ある報告では、豆まきをピーナッツで行う家も出てきたと記す。将来、豆はスーパーで買い、恵方巻を食べることが三重県の節分として紹介される時代が来るのだろうか。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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