地域性見られる七草の囃−昔の正月しのぼう
七草の囃言葉の違い分布概略図
今日は1月7日。この日には昔から七草粥(七種粥)を食す風習がある。七草粥の歴史は古く、平安時代に遡ることができる。ただし、現在のようなセリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロを入れた粥が定着するのは、それよりも数百年後のことである。
一口に七草粥といっても、その中味は昔も今も地域や家庭で異なっているらしい。七草を全部揃える、ナズナだけは必ず入れる、あり合わせの野菜を使う、餅や小豆を入れるなどである。珍しい例として、鳥羽市国崎では、フノリ・ヒジキ・ホンダワラなどの海藻を酢で和えたものを神棚に供えるという。また、食べるとき熱くてフーフー冷ますと、「福」が逃げるとか、田植えに風が吹くとかいって嫌う地域もある。
七草粥は、単に野草を入れて粥を炊くだけではない。かつてはもっと手の込んだ正月行事であった。そこで、「郷土教育資料」から歴史的な七草粥の様相を見てみた。郷土教育資料とは、明治末〜昭和前期に各小学校が地域に密接した教材を作成したもので、その地域の風俗習慣など、当時の人々の暮らしがよくわかる。大正元(1912)年の丹生川村(現いなべ市)尋常高等小学校の郷土教育資料にも七草粥行事の記述がある。それは明治5(1872)年以前、旧暦の頃のことと断りがあるが、少し紹介してみよう。
1月6日に女児が七草を摘み、その晩マナ板の上に七草とマナ箸・スリバチ・スリコギ・庖丁・杓子を載せ、合わせて7種として七草をたたく。翌朝、それを粥の中に餅と一緒に入れて食べると記されている。七草をたたくときに、「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に、なずな七草あわせてホトト」を7回繰り返し唱えたという。いわゆる七草の囃(はやし)である。意味は、害をもたらす鳥が渡ってくるので、その前に追い払い、五穀豊穣を祈るなどの説もあるが、定説はない。
七草の囃子は三重県内広く見られるが、地域によってバラエティーに富んでいる。たとえば、阿山町槇山では「七草なぐさ、トートの鳥が、日本の土地へ渡らぬ先に、かけよとバタバタ」、伊勢市一宇田では「唐土の鶏と、日本の鶏と、渡らぬ先に、キヤキヤしてホトト、キヤキヤしてホトト」と囃したと記録されている。こうした各地域の囃子の状況を、@「日本の土地(国)」か「日本の鳥」か、A「ホトト(ホトホト)」か「バタバタ」かの2点に注目して、地図に記入してみた。典拠資料の成立や調査時期が不統一で、資料のない地域もあるが、その分布は概ね概略図に示したようになる。@は、「土地」系が北伊勢や伊賀北部に多く、さらに志摩の神島・国崎や東紀州にもある。「鳥」系の分布は県内中央部、伊賀南部と中南勢、志摩の内陸部や答志島などで確認される。次にAは、「ホトト」系が北伊勢や伊勢湾沿岸地域に多く、「バタバタ」系は伊賀と中南勢山間部や東紀州に分布する。ただ、中南勢の内陸部などではこれらが混在し、それに志摩や東紀州も含めた地域では結びの囃子が「トントン(ストトン)」、「ゴトゴト」、「コケコッコ」などと、変化したところもある。
しかし、現在では、こうした七草を囃す習俗が残っている地域はほとんど見られなくなってしまった。今はスーパーで「七草粥セット」が簡単に手に入る。いかにも現代的な七草粥の味わい方であるが、歴史的な資料や古老の話にも注目して、昔の正月の光景をしのんでみてはいかがだろうか。
(県史編さんグループ 石原佳樹)