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村によりさまざま−江戸時代の休日の定め方


『晴雨日記』表紙(熊野市歴史民俗資料館所蔵)

『晴雨日記』表紙(熊野市歴史民俗資料館所蔵)


 現在の「法定労働時間」は、1週間40時間、1日8時間であり、多くの会社や役所では週休二日制をとっている。休みは人間生活にとって必要不可欠なもので、活力の源でもある。ただ、少し前までは法定労働時間が1週44時間であり、休日の数も時代によって変化している。
ところで、農業が主体であった江戸時代はどれぐらいの休みをとっていたのだろう。今のように法律で定まっていたのでなく、地域によって様々であったようだ。
江戸時代の休日について、歴史学的な研究もあり、農耕儀礼や年中行事との関係である程度明らかにされてはいるが、地域に偏りがある。休日は非常に少ないのが実状で、美濃国の輪中にあった楡俣(にれまた)村の枝村、西条村(現岐阜県輪之内町)などでは、正月や節句のような一般の祝祭日のほか、田植仕舞などの農休み、祭礼等神事に関する日が休日で、年間約25日であった。また、信州地域では、休日を村で取り決め、その日数は30〜80日までいろいろであるという報告も見られる。
三重県域の場合も、他地域と同様と想像されるが、当時の日記からその状況をながめてみよう。それは、紀伊国牟婁郡大俣村(現熊野市)の元庄屋が記した『晴雨日記』と題された私日記で、1862(文久2)年から1869(明治2)年まで7年間(慶応元年欠)にわたる。当時の農作業の様子や年中行事など、庶民生活を知ることのできる格好の史料であり、既に熊野市教育委員会が活字翻刻している。この『晴雨日記』の作者・坪田伊之右衛門良金は、1789(寛政元)年生まれ、1871年に82才で死去しているが、この日記を書いた頃は庄屋役を子に譲り、隠居として寺子屋の師匠をしていた。
日記の中には、毎年「村中休日」と記述されている。例えば、1863年は4月12日、5月8日・17日、6月1日・15日、7月23日、8月15日の7日間で、翌64(元治元)年も4月23日、5月23日、6月8日・23日、7月29日、8月1日で、やはり7日間である。両年の休日の理由を見てみると、4月は草初(草刈りはじめ)、5月はさなぶり(田植え後に神棚に早苗を供える行事)、6月前半は虫送り(害虫駆除の行事)、6月後半は氏神への五穀豊穣の祈祷であり、64年の7月は施餓鬼(せがき)、8月は伊勢・熊野・玉置への代参によるものであった。また、この年以降も、月日は異なるが、「村中休日」として、草初、さなぶり、虫送り、氏神への祈祷、伊勢・熊野への代参の行事などがほぼ毎年記されている。
休日は「村中休日」だけではなく、正月や盆も休日であったようで、日記には、正月三が日は「年頭規式」「年頭御礼」「氏神参詣」などを行い、4日から山はじめ、盆は7月13日〜15日まで「盆賀」「中元の祝賀」など施餓鬼を行っている。
 さらに、正月や盆だけでなく、五節句も休みであったことが日記からうかがえる。節句のうち、人日(じんじつ)(1月7日)、上巳(じょうし)(3月3日)、端午(たんご)(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(ちょうよう)(9月9日)の五節句が重要視されているが、それぞれ「七種之御?(ななくさのおかゆ)家内目出度祝ふ」「桃節句祝賀家内目出度祝ふ」「端午の節句家内盃事目出度祝ふ」「七夕之御節句家内目出度祝ふ」「重陽之祝賀家内目出度祝ふ」などとあり、氏神様への参詣や節句の祝儀も記載されている。
以上、大俣村では、正月・盆で6日間、五節句で5日間、農事・祭礼行事等の「村中休日」で5〜8日で、およそ16〜19日ほどの休日となる。それに、八朔(はっさく)(八月一日)、彼岸の中日なども休日だった年もあり、休日は更に増える。
いずれにしても、農事や祭礼など村の慣習や行事に合わせて村が休日を定めており、その習慣は「日待ち」という形で第2次大戦後も残り、最近まで行われていた農村地域もあるという。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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