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子の幸せ願い、真剣に−井島文庫に残る命名資料


命名につき書状下書き(井島文庫=四日市市立博物館所蔵)

命名につき書状下書き(井島文庫=四日市市立博物館所蔵)


 「発見!三重の歴史」というタイトルで連載が始まってから1年10か月。少しではあるが、反響も伝わってくる。三重県ホームページへ掲載している同シリーズのアクセス数も随分増えてきている。こうした反応は書き手を勇気づける。
 しかし、一方で私たちは「発見!」というタイトルに苦しむことがある。執筆担当は月1回程度だが、新鮮な話題を探すことは大変だ。今回も果たして「発見」と言えるのか疑問だが、筆者の心にずっと残る興味深い史料を紹介してみようと思う。
 その史料は、四日市市立博物館に収められた「井島文庫」と称される史料群の中に含まれている。井島家は江戸時代、代々四日市町の庄屋役などを勤めた旧家である。幕末に生まれた井島茂作は、地域の政治・産業経済・教育界の要職を歴任し、現在の四日市商業高校の母体創設に寄与し、2代目四日市市長にも就任している。現在、井島文庫は四日市市の指定文化財になっている。
 今回取り上げる史料は、写真のとおり抹消・加筆訂正が随所にあり、筆もかなり乱れている。職場仲間の力を借りながらなんとか読むことができた。まず、この史料が書かれたいきさつをまとめておこう。
 1851(嘉永4)年、美濃国古宮村(現岐阜県大垣市)の川瀬家から四日市町の井島家へ嫁いだきく=i19歳)のお腹に新しい生命が宿った。出産予定は11月である。9月23日、稲生神宮寺から出産時に備えて産の間に貼る大札やお守り、出産の際に向く方角や「えな」を納める方角を授かった。11月13日夜7つ時過ぎ(午前5時頃)、きくは古宮村の実家で無事女の子を出産した。その3時間後にきくの父・川瀬百次郎から井島弥左衛門(恐らくはきくの主人)にあてた無事出産の報告が井島文庫の中に残る。これには「子ハ男子ニ御座候得共、壊死(えし)ニ而産レ候」と記されている。壊死とは体の組織や細胞が局部的に死ぬことであり、男子の誕生を望んだ井島家に対し、女子の出生という直截的な表現を避けた配慮が感じられる。では、この子にどのような名を付けようか…、それがこの史料である。
 史料を要約すると、誕生して間もなく慌ただしく神宮寺に名前案を伺っている。この時は「志摩・雅楽(うた)」という名が選ばれたが、その後じっくり考えて、結局「みち・さち・あや」の中から「相性相当之吉名」を名乗らせたいという気持ちになった。せっかく考えていただいたのに、再度頼むなど失敬極まりないが、ぜひお願いしたいというものである。わが子の名前を真剣に考える親の気持ちがにじみ出ている。
 また、興味深いのは、この文中で「女子一代之義ニ付、可成丈(なるべくだけ)相性相当之吉名」を付けたいと記している。それは次のような意味ではないか。すなわち、男性ならかつては元服の際、幼名を改めたが、女性は一部の例外を除けば一生同じ名前である。そのため、できる限り相性のよい名を名乗らせたいと願ったのではないだろうか。江戸時代は封建社会、男性上位社会であり、家を継ぐ男子の誕生が強く望まれたのは、嫁方の家が「壊死」という表現を用いてまで文面に男子と記したことからもうかがい知れるが、嫁ぎ先の家ではそのような失意は全く感じさせない。それどころか、女性ゆえに名前を真剣に考えてあげたいという親の素直な愛情が伝わってくる。封建の世も今も子を想う親の気持ちには違いがなかった。
 さて、その後、この子にはどのような名がついたのか?神宮寺から翌年1月8日に「寶(みち)・方(みち)・斐(あや)」という三つの名前の候補が届いた。そして、2月の宮参りの史料から「寶」と名付けられたことがわかる。誕生から命名されるまで、この間二か月近く経っている。ついでながら、1866(慶応2)年10月9日に誕生した妹は「斐」と名付けられている。

(県史編纂グループ 石原佳樹)

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