トップページ  > 発見!三重の歴史 > 庚申信仰 江戸期に流行−誕生寺・庚申塔に戦国期の年号

庚申信仰 江戸期に流行−誕生寺・庚申塔に戦国期の年号


一志町誕生寺所蔵「石造阿弥陀如来立像」

一志町誕生寺所蔵「石造阿弥陀如来立像」


 近世期を中心にして、ごく最近まで全国的に広く行われていたものの一つに「庚申(こうしん)信仰」がある。
 「庚申講」と呼ばれる信者の集団が、干支で言うところの庚申(かのえさる)の日に一戸の宿に集まり、庚申をまつってお神酒・精進料理などを祭壇に供え、念仏を唱えた後、雑談をして時を過ごす。多くは、夜を徹して行われる。
庚申信仰は、道教に説く三尸(さんし)説を母体として、密教や修験道、民間信仰や習俗などが複雑に組み合わさって成立したもので、それによると、人間の体内には三尸という三匹の虫がいる。これらは常に人間の罪を監視しており、庚申の晩に隙を見て天に昇り、天帝にその罪を報告する。その行為によって、人間は早死にすると考えられていた。しかし、庚申の夜に寝なければ、三尸は体内から出ることができず、天に昇ることもない。したがって、庚申の日に身を謹んで徹夜すれば、早死にを免れて長生きができるとされた。この行事をする人々の階層や時代によって種々呼び名があるが、やがて一般に「庚申待」と呼ばれるようになる。
 わが国に伝えられたのは、8世紀後半ごろと考えられており、最初は天皇や貴族の間で行われた。道教では、静かに夜明かしをせよと説くのに対して、日本では眠気を覚まし、また時間を過ごす方法として、双六などの遊びや飲食を行ってにぎやかに夜明かしを行った。こうしたやり方が鎌倉時代以後も受け継がれ、やがて室町時代に『庚申縁起』が成立すると、礼拝本尊が考え出され、一般の人々にも仏教式の庚申信仰が広まりだした。これに対して、神道側も、庚申の「申(さる)」にちなんで、猿田彦神を本尊とする庚申祭を行った。その本元は、伊勢市の猿田彦神社とされている。
 このように江戸時代になると様々な庚申信仰が成立したが、明治初年の廃仏以後は神仏混交の場合が極めて多い。また、その内容も時代とともに変遷し、徹夜であったものが、一番鶏が鳴くまででよいとなり、さらに近年になると前夜半、著しい場合は一時間ほどで解散してしまう庚申講もある。
 庚申講の人々が、庚申待の供養のために造立したものに庚申塔がある。ほとんどは石造物で、形もいろいろな種類があるが、江戸時代になると定型化し、青面(しょうめん)金剛(こんごう)などの刻像塔や庚申の文字を刻んだ文字塔が主流になる。
 県内にもたくさんの庚申塔があるが、一志町の誕生寺に伝来している庚申塔には、戦国時代の年号が刻まれている。  
砂岩に阿弥陀如来の立像を半肉彫にあらわし、像の両側に「庚申待衆八人」「天文十六丁未十二月十三日」の刻銘がある。1547(天文16)年に庚申待を行った八人が制作したことがわかる。もと近くの道端にあったと伝えられ、屋外にあったためか上部にひびが入り、顔が一部欠落している。
 この像は、『一志郡史』(1955年)に紹介されているが、尊名を釈迦如来としており、『一志町史』(1981年)もそれを踏襲している。しかし、像の手をよく見てみると、若干摩滅してはいるものの、右手の第一・二指を合わせており、その印相から判断して阿弥陀如来像とするのが妥当と思われる。
また、両書とも年号の部分を「十二月」としているが、『古記部類』という書物に、970(天禄元)年十一月十三日から一年間、慈恩会を庚申講と言ったことが辞典類に引用されている。ひょっとすると「十一月十三日」の方に意味があるのではと期待したが、現地でよく観察すると、やはり「十二月」が正しいように思われる。石造物の銘文は、表面の鑿跡や石のひび等が文字の一部に見えることもあり、なかなか判読がむずかしい。
いずれにせよ、誕生寺の石造阿弥陀如来立像は、庚申塔の中でも比較的早い部類に属し、県内はもちろんのこと、全国的にも注目される例と言える。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る