「軽便鉄道」復旧の希望かなわず−安濃鉄道「休止延長願」何度も
安濃鉄道沿線地域概観図(『三重県史研究』第8号)
2、3年程前、近鉄北勢線の廃止問題があった。結局、三岐鉄道に事業譲渡されて存続が決まったが、この北勢線はもともと「軽便鉄道(けいべんてつどう)」として建設された。軽便鉄道といっても、最近ではその言葉を知らない人も多くなったかもしれない。しかし、反面なつかしく感じる方も結構おられるのではないだろうか。戦前の三重県では各地に軽便鉄道が走っていて、乗車経験はなくとも、「昔は軽便があった」という話は聞かれているのではと思う。
軽便鉄道は、字のとおり手軽で便利な鉄道で、幹線鉄道に比べて軌道幅も狭く、小さな機関車や車両を使ったものである。三重県では762ミリの軌道幅が多用され、今でも北勢線や近鉄内部・八王子線はそのままの軌道幅で電車が通っている。
1910(明治43)年「軽便鉄道法」が成立し、開業の免許資格や建設規定などが大幅に緩和されたため、小規模な資本によっても建設が可能となった。さらに、営業開始から5年間は政府からの補助もあって、地方は軽便鉄道ブームになった。特に伊勢湾沿岸に中小都市が並ぶ三重県では、「軽便鉄道法」が廃止される1919(大正8)年までに多くの軽便鉄道が誕生した。路線数で言えば、全国府県のうち十指に入るという。北勢鉄道や三重鉄道(内部・八王子線)のほか、養老鉄道・四日市鉄道(湯の山線)・伊勢鉄道(名古屋線の一部)・伊賀鉄道があり、これらは軌道幅を改修したものの、現在も近鉄線として残存している。また、中勢鉄道・安濃鉄道・松阪軽便鉄道も、この時期に開業したが、今は路線が廃止されている。
中でも、中勢鉄道や安濃鉄道は、第二次大戦中の資材統制などを受けて経営不振にもなり、会社の解散あるいは路線の廃止・休止に追い込まれた。津市岩田〜久居町〜一志郡川口村(現白山町)を結んでいた中勢鉄道は、1943(昭和18)年2月に会社解散を余儀なくされた。そして、安濃鉄道も、支線の安東・片田間(現津市)や林・椋本(現芸濃町)間の廃止に続いて、44年には鉄道軌道整備令によって津の新町・椋本間も全線休止となり、レールも撤去されてしまった。
ところが、安濃鉄道は会社を解散せず、一貫して会社存続の立場を取り続けていた。かなり前になるが、県史編さんの調査で運輸省(現国土交通省)の文書中から戦後に何度か会社が「休止延長願」を提出しているのを発見した。すなわち、新町・椋本間の路線復旧に「資金ノ調達」がおぼつかないので、もう少し休止を延長したいという願い出である。1951年・56年・61・62年とたびたび出され、64年までの延期が運輸省から認められていた。既にレールもなく、中勢鉄道同様てっきり戦時中に会社も解散したと考えていたので、この発見には驚いた。
こうした軽便鉄道には、地域の人たちが地域発展の願いを込めて、資本を出し合って建設したものが多い。安濃鉄道の株主を見ても、大半は安濃・河芸郡(現安芸郡)の人たちであった。厳しい戦時体制下でやむなく休止した軽便鉄道を、地域のために復旧したいという希望を捨て切れなかったのである。ただ、62年の願い出には大企業への事業譲渡の方策も記されているが、結局は実現することはなかった。
(県史編さんグループ 吉村利男)