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先人の苦闘今に伝え−「東北伊賀五ケ町村旱害史」


『東北伊賀五ヶ町村旱害史』(県史編さんグループ所蔵)

『東北伊賀五ヶ町村旱害史』(県史編さんグループ所蔵)


 7月後半には台風7号の影響で雨も降ったが、今年の夏は近畿・東海地方ではきわめて雨が少ない。最近はダム建設や農地改良によって水田の灌漑が行き届き、旱害(かんがい)などはめったに聞かなくなった。それでも、今年は芸濃町の安濃ダムでは早くから湖底面が露呈し、農業用水不足で多少騒ぎもあったらしい。
 そこで、今回は旱害の歴史についてまとめた1冊の本を紹介しようと思う。それは『東北伊賀五ケ町村旱害史』(奥書は「伊賀東北……」)で、阿山郡玉滝・鞆田・河合村(現伊賀市・旧阿山町)や柘植町・西柘植村(同・旧伊賀町)の5ケ町村の旱害史である。これらの町村は、古くから旱害に悩まされ、その都度、根気強く対策を講じてきた。そして、第2次大戦後の1950(昭和25)年には、抜本的な対策として滝谷池・鴉山(からすやま)池の築造、大杣池の拡張工事など、大規模な県営事業が始まり、人々は「旱害に終止符を打つべき未来永劫の大計」と期待した。その事業着手を記念して、この本が出版された。永年にわたる旱害との苦闘を後世に伝えるためで、執筆には「柘植の文人・宮林春雄(照葉)」が当たり、「阿山郡柘植町役場・伊賀東北五ケ町村旱害対策期成会」が発行した。
 この本には、1883(明治16)年以降の旱害の状況や対応の努力が数多くの資料を用いて詳しく描かれている。1883年以外にも、86年・92年・93年・94年、1913(大正2)年・22年・23年・24年、47(昭和22)年の旱害が取り上げられている。中でも、1893年の旱害は数人の「農業日記」が引用され、状況がよくわかるので、ここに河合村の60歳の人の日記(月日不詳)を掲げてみよう。
 「生まれて始めての旱害だ。この田の水が切れようとは思いもよらなかった。池は空となり、一滴の水すらない。…稲は雨が来ても、もう育つまい。祈願の雨乞ひも徒労に終つてしまつた。…全部の水田は稲が縮みあがつてしまつた、駄目だ、今年は米がとれない…来年はどうして食べればいいのであろう。百姓をやりながら自殺する人がこの村から六戸も出た。…先祖の田を捨てて大阪へ夜逃げした家が三戸も出て来た」とあり、口語文に書き直されているが、かえって村の悲惨さはよく伝わってくる。
 また、旱害になると、米の減収の打撃だけでなく、来年の耕作に備え水漏れ防止工事を行わねばならず、これが重労働で大変であった。別の資料(『明治廿六年旱害田被害地取調書』旧東柘植村文書)によれば、工事の種類には「畔(あぜ)堀」と「底張」があった。「畔堀」は、水田の畔際を一定幅掘り、水を散布しながら埋め、足で踏み固め、畔を補強する工法であった。また、「底張」は水田の床全面を3〜4寸(約9〜12p)掘って、「畔堀」同様、足踏みや槌で床土を固めた。こうした工法は江戸時代からあり、これに対し「壱坪ニ付玄米壱升五合」の補助米が藤堂藩から出されていたという。
 それに、「畔堀」は旱害の激しい水田ほど深く掘って土を踏み固める必要があった。掘鑿(くっさく)度合いは、鋤(すき)1本の幅(7寸)・深さ(9寸)を基準とし、その掘った幅と深さから「一鋤・二鋤・三鋤・四鋤……」と区分され、それぞれの工費積算方法が定められていた。そのため、旱害被害の状況も「鋤」で表示されるようになり、『旱害史』の1947年「旱害被害地調」にも「西柘植村 三鋤 七八五反」などと見られる。
 以上、この本は水の大切さや先人たちの苦闘・知恵を後世に伝えている。ただ、1950年当時の印刷は紙質が悪く、写真の1冊も劣化が激しい。また、県立図書館などには所蔵されているが、さほど広くは流布していない。県内唯一の旱害史。地域の水問題を考える上で貴重な資料であり、広く読まれるためにも再版の声を期待したい。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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