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占領下、鍼灸の灯守る−石川博士、GHQを科学的に説得


石川博士の死亡を記したGHQ三重軍政部の「月例報告」

石川博士の死亡を記したGHQ三重軍政部の「月例報告」


 県史編さん室には、三重県の歴史に関する様々な問合せがある。既に資料がそろっている場合はよいが、いろんな資料を探して苦労することもある。しかし、こうした問合せによって、三重県の歴史の違った側面を知ることができる。特に専門分野でないと気付かないことなど、教えてもらうことも多い。
 今回は、東京で衛生学を学ぶ専門学校生Oさんの問合せについて、紹介してみようと思う。それは「敗戦後のGHQ資料中に、石川博士に関する記載はないか」という質問から始まったが、GHQ文書の三重県関係分についてはマイクロフィルムを国立国会図書館から複製入手していたので、記載を探してみるということで電話を切った。
 ただ、石川博士とはどんな人なのか、最初はわからなかった。よく聞くと、三重県立医学専門学校(県立大学医学部の前身、現在三重大学医学部)の校長・石川日出鶴丸(いしかわ・ひでつるまる)博士のことであった。京都帝国大学の名誉教授で、1944(昭和19)年に医学専門学校が設立された際、初代校長として迎えられた。博士は生理学が専門であったが、東洋医学の鍼灸(しんきゅう)治療にも関心をもち、医学専門学校に鍼灸療法科を設置していた。
 一方、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は、日本占領政策の一つとして「医療改革」では鍼灸治療を問題視し、「鍼灸禁止令」が出される恐れもあったらしい。そんなとき、博士は「科学的な根拠さえ示せば存続が認められる。GHQからの取調べがあったら『津の石川に聞くように』答えてもらいたい」と学会でも声明されていたようである。鍼(はり)や灸を用いる治療を科学的に理論付ける自信があったというわけである。
 そして、実際に1947年7月1日、博士はGHQの三重軍政部に呼び出された。余談ながら、軍政部は県会議事堂を占拠していた。現在は県民サービスセンターが建つ場所で、県史編さん室はそこにある。軍政部に出頭した博士は鍼灸に関する15項目の質問書を手渡され、翌2日その回答書を読み上げると、軍政部担当軍医の態度が一変したという。博士の学識の深さがそうさせたのであろう。また、7月7日には軍政部で実技を披露した。担当軍医にも鍼(はり)を試み、好評を得たと同行した関係者は回想している。
 こうした博士のGHQとのやりとりの様子は、全国の関係者に伝わり、鍼灸存続運動として展開し、鍼灸治療が認められることになる。しかし、博士は、その存続運動の結果を見ることなく、10月24日脳溢血で倒れ、11月8日に69歳の生涯を閉じた。三重軍政部は、この博士の死を「月例報告」に取り上げ、GHQ本部に提出した。博士の略歴のほか、彼の遺体が解剖に付されことと医学専門学校で行われた葬儀に軍政部からも参列し「真の科学者であった。博士の夢を裏切ることのないよう」と弔辞したことが記されている。
 専門学校生のOさんには、英文タイプで作成された「月例報告」のその部分を複写して送った。周囲の東洋医学の専門家たちもその資料の発見に大変驚かれたようで、卒業論文だけでなく、専門雑誌『医道の日本』にも「占領下の鍼灸」として発表された。当方にもその論文の複写を送っていただき、今回の小文はそれを参考にした。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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