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「瞬時ニ」浸水「言語ニ絶ス」−東南海地震津波 九鬼村は


『震災諸記録編』の簿冊と回覧板(複写)

『震災諸記録編』の簿冊と回覧板(複写)


 昨年末12月26日のスマトラ沖地震に伴う大津波は、周辺の国々に甚大な被害をもたらした。死者・行方不明者が30万人以上に達し、改めて地震や津波の恐ろしさを感じた。
 三重県での津波と言えば、1960(昭和35)年5月24日早朝のチリ沖地震に伴う津波がある。前日23日の午前4時16分(日本時間)に南アメリカのチリ沖で大地震が発生し、その24時間後、我が国に大津波が押し寄せた。三重県の熊野灘沿岸各地の約3300世帯が床上浸水の被害にあったが、人的被害はなかった。
 それに比べ、60年前の1944年12月7日に起こった「東南海地震」は、津波で多くの犠牲者を出した。第2次世界大戦中で、その正確な数は明確でないが、現南勢町以南の熊野灘沿岸で約2500戸の家屋が流失し、死者・行方不明者が250人を超した。
 この東南海地震については、このコラムでも既に一度取り上げたが、そのときは戦時中で被害が報道管制されたことを中心に記述した。今回は、特に津波直後の対応を熊野灘沿岸の旧村役場文書から見てみたい。と言っても、戦時中文書の消却破棄や「昭和の大合併」での旧村役場文書処分などで、残された文書は限られている。その中で、九鬼村(現尾鷲市)の『震災諸記録編』が最も克明である。20年ほど前、地元の県史資料調査員から複写をいただいたものであるが、今、原文書の所在がわからないらしく、この複写資料が貴重なものとなっている。
 九鬼村の津波被害は、死者4名、流失・倒壊家屋54棟、浸水家屋約300棟で、『震災諸記録編』は「災害発生記録」から始まっている。12月7日午後1時40分に地震が発生し、10分あまり続いた震動の後、津波を警戒し村民を「高丘ニ避難」させた。約5分で津波が来て「瞬時ニシテ」海岸付近の人家が浸水した。再三の津波で倒壊する家も出て、その惨状は「言語ニ絶ス」ものであったと記す。
 津波の翌8日には、(1)罹災者の九木国民学校への収容・炊出し(2)浸水米の配給(3)警防団員による道路修復(4)警察署・地方事務所への連絡(5)死亡・行方不明者の捜索などの緊急措置が実施された。緊急村会が開かれ、この災害に「挙行一致体制」で臨むことが決議された。具体的には、災害家屋の片付けや家財道具処理には被害のなかった家庭の男子動員が義務付けられ、上水道の応急処置や食糧品をはじめ医療薬品・蒲団などの確保が最優先課題となった。
 村長は各自手持ちの食糧品を節約するよう告示し、衛生面の注意や社会不安解消のための回覧板を回した。その主なものを掲げると、衛生面では「伝染病発生ノオソレガアリマスカラ生水ゼッタイ飲マヌコト」、「タタミ・衣類・夜具ナドハ十分乾シテカラ使フコト」などで、続けて「銀行モ郵便局モ平常通リ払戻シテクレマス」、「通帳ヲ失ッテモ心配イリマセン」と、取付騒ぎを回避する手立ても講じている。それに、被害状況を特に軍人に知らすことの禁止など、報道・通信に関する規制の文面も回覧板に見られる。「隠された地震」の所以である。
 こうした津波直後の対応から、やがて復興委員会が組織され、仮設住宅の建設も始まった。仮設住宅は、九鬼村の全壊・流失の罹災世帯を対象に88戸が県営バラックとして建設された。県営仮設住宅の基準として、1〜3人の世帯は6畳に同居、同居家族6人までは6畳、7人以上は9畳と定められ、被災者にとっては不自由な生活を余儀なくされた。また、建設の大工は「緊急工作隊」として津市などから派遣され、県内こぞって災害復興に当たった。
 なお、県庁ホームページの『県史あれこれ』(歴史/文化)でも「東南海地震」へのアクセス数がきわめて多い。この地域での大地震発生に対する不安感の表れだと思うが、今後の防災対策上からも、この60年前の地震・津波の実態解明が必要である。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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