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「エキストラ800人」一夜で−江戸橋・中川間の狭軌化工事


『大阪毎日新聞』(1938年6月27日付け)

『大阪毎日新聞』(1938年6月27日付け)


 資料調査中、1938(昭和13)年10月の新聞に「参急江戸橋・中川間 近く狭軌に変更」という記事を見かけ、少し気になった。というのは、近鉄名古屋線はかつて狭軌(幅約106p)で、今は広軌(幅約143p)ということはよく知られているが、江戸橋・中川間は元々広軌であったのである。そのことには気づかなかった。そこで、経緯を参急の鉄道敷設状況を追いながら見てみようと思う。
 参急、すなわち参宮急行電鉄(現近畿日本鉄道)は、1927年9月28日に会社が創立され、既に大阪電気軌道(大軌)が建設していた大阪・桜井(奈良県)間の鉄道を三重県の宇治山田まで延長することを目標にした。
 また、それにあわせて、参急は名古屋方面への鉄道敷設も計画し、28年6月には一志郡戸木(へき)村(現久居市)・桑名郡大山田村(現桑名市)の鉄道敷設免許も取得した。戸木村が起点となっているのは、当初の宇治山田への路線計画が大三村(現白山町)から七栗村(現久居市)を経て戸木村に至り、本村・桃園村(現久居市)・小野江村・天白村・米ノ庄村(現松阪市)をたどるコースであったからである。しかし、測量の結果、このコースは迂回線が多く、「高速度電気鉄道敷設ニ適」せず、大三村から大井村・高岡村・川合村(現一志町)・中川村・豊田村・中原村・米ノ庄村(現松阪市)を通過する直線的なコースに変更となった。28年8月のことで、同時に認可のあった中勢鉄道の久居・中川間の敷設権も参急に譲渡され、当初設置予定のなかった中川駅が分岐点になった。
 県内での参急の開通は、まず30年3月27日の松阪・外宮前(現「宮町」)間で、同年5月18日に松阪・久居間、9月21日に外宮前・山田(現「伊勢市」)間と続き、大阪線の各区間もつながり、翌年3月17日には大阪・宇治山田間が全通した。そして、津方面の路線も徐々に延長され、久居・津新町間が31年4月、津新町・津間が32年4月に開通した。
 一方、1910(明治43)年創立の伊勢鉄道は、軽便鉄道として伊勢湾沿岸に路線を拡大していたが、1926(大正15)年に電化工事を行い伊勢電気鉄道(伊勢電)と改称し、30年12月には大神宮前・新松阪・江戸橋・桑名間が全通した。さらに、桑名・名古屋間の敷設免許も得たが、それは36年1月設立の関西急行電鉄(関急)が建設を進めた。
 また、参急は同年9月に伊勢電を合併し、江戸橋・桑名間は旧伊勢電の線路を使うこととし、江戸橋駅で参急と旧伊勢電を接続した。津・江戸橋間の開通は38年6月で、それと同時期に関急の桑名・名古屋間も竣工し、名古屋・大阪がつながり、多くの乗客が利用した。ただ、関急や旧伊勢電の路線が狭軌、江戸橋・中川間は広軌であったため、江戸橋駅で乗り換えなければならなかった。名阪間の初乗り記を掲載した『大阪毎日新聞』も「大半知らぬ江戸橋駅の乗換へ」と見出しを付けているが、江戸橋の乗換がネックであったらしい。そこで、江戸橋・中川間の狭軌化工事が計画された。工事は、38年12月6日夜から7日の早朝にかけての6時間、13キロあまりの線路に「エキストラ800人」が入って行われたという。
 そして、その後は伊勢湾台風のあった1959年秋までは狭軌のままであった。狭軌といっても国鉄の軌間と同じで、他の県内の軽便鉄道に比べて旧伊勢電の軌間は広かったものの、やはり中川駅での乗換は輸送上問題があり、近鉄では名古屋線の広軌化を検討していた。そんな矢先に伊勢湾台風が来襲し、名古屋線は全線で甚大な被害を受けた。近鉄は災害復旧工事に合わせ、連日千数百人を動員してわずか9日間で名古屋線全線を一挙に広軌化した。その工事は、「禍を転じて福と為した」近鉄の英断とよく言われるが、江戸橋・中川間も元の広軌に戻ったのである。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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