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阿弥陀立像に国宝指定−隠れた存在、思わぬ形で脚光


慈恩寺の木造阿弥陀如来立像

慈恩寺の木造阿弥陀如来立像


 現在、亀山市歴史博物館において、市制50周年プレイベント記念展示が催されており、市内野村町にある慈恩寺(じおんじ)の重要文化財・木造阿弥陀如来立像が12月までの間公開されている。
 阿弥陀如来像は、像高160センチメートル余りのほぼ等身大の像で、衣をまとって蓮華座の上に直立する姿である。頭体のほとんどをヒノキの一材から彫出しており、一部に木屎漆(こくそうるし)と呼ばれる、パテ状に練りあげた漆を用いて厚手に塑形している個所もある。
 県内でも数少ない平安時代初期の優れた彫像で、重量感に満ち、はつらつとした生気あふれる力強い作風を示している。これまでにも美術全集や美術史関係の専門書に幾度となく紹介され、また、戦後2回、東京の展覧会にも出品されるなど、まさに三重県を代表する仏像と言えよう。
 しかし、これほどの像でありながら、本像が国宝(戦後、重要文化財)に指定されたのは昭和12(1937)年8月25日で、他の県内指定仏像に比べて随分遅い。現在、三重県には63件79体の重要文化財(彫刻)があるが、その大半が明治30(1897)年制定の古社寺保存法に基づき指定された、いわゆる旧国宝である。ちなみに、県内で最も早い指定は明治37年8月28日付けで、現松阪市朝田寺(ちょうでんじ)の木造地蔵菩薩立像と島ケ原村観菩提寺の木造十一面観音立像であったが、大正5(1916)年までに49件64体の仏像が国宝になった。当然ながら、慈恩寺の木造阿弥陀如来立像はこの中には含まれていなかった。また、江戸時代以降の地誌類にも何ら記載が見当たらないことから、ほとんどその存在を知られていなかったと推察されるのである。
 さらに、面白いエピソードが国宝指定となった昭和12年当時の新聞記事に見られる。まず、昭和12年2月、同じ慈恩寺境内にある薬師堂(記事では観音堂)の本尊である薬師如来立像について国宝指定申請が提出され、文部省から国宝監査官荻野仲三郎と丸尾彰三郎の2人が来県し調査を行った。ところが、調査の結果は申請された仏像よりも本堂の阿弥陀立像の方が国宝にふさわしいということになった。2人の鑑査官もさぞ驚かれたことと思われるが、こうしてこの阿弥陀如来立像が文化財として一般に知られるようになったのである。
 なお、寺伝によると、奈良時代の僧・行基が野村の地に薬師寺(法相宗)を創建し、自作の仏像を安置したという。その後、様々な経緯を経て寺名は慈恩寺となり、宗派も浄土宗に変わったが、この阿弥陀如来立像がそのときの仏像で、両手を阿弥陀の印相に改作して今に至るとされる。現在流布している阿弥陀如来像の縁起は、この寺伝を元にしているが、残念ながら、これらを裏付ける史料はほとんどない。国宝指定当時の住職も詳細は不明と語り、昭和年発行の『三重県国宝調査書』にもこの仏像の縁起には触れていない。
 このように、伝来に関する謎はあるものの、このことで重要文化財の阿弥陀如来立像に対する評価はいささかも揺らぐものではない。亀山市歴史博物館での公開はあとわずか、一度御覧になられてはと思う。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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