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深刻な生活苦が背景に−明るみに出た悲しい事件


事件を伝える伊勢新聞の見出し(昭和8年)

事件を伝える伊勢新聞の見出し(昭和8年)


 資料調査で大正〜昭和前期の地元新聞を見ていたところ、大正14(1925)年10月、伊賀地域で起こった「大堕胎事件」の記事が目についた。手術をした「産婆」や手術を受けた女性五十数人が起訴され、当時の社会に大きな衝撃を与えた。
 堕胎(マビキ)イコール江戸時代のものといった漠然とした歴史認識しかなかったが、大正末期に、こういった大規模な堕胎事件の存在を知り、非常に驚いた。「富国強兵・殖産興業」を進めた明治政府は、西洋の堕胎観や人口増加を推進する必要性から、早くも明治2年(1869)に堕胎を禁じた。また、明治40年に公布された刑法にも「堕胎ノ罪」を規定し、徹底的に取り締まっていた。
 この事件については、既に詳しい分析があるが、この時期、県内でほかにも同様の事件があったらしい。そこで、もう少し調べてみた。 
 昭和前期の社会主義者・猪俣津南雄(いのまたつなお)は、昭和9(1934)年に2府16県にわたり昭和恐慌下の農山漁村を踏査し、その悲惨な状況を『踏査報告 窮乏の農村』として記録している。そこに「三重県の漁村の女房たちは、亭主との間に出来た〔子供〕を〔間引〕(カッコ部分は初版は伏せ字)した廉で、一小隊ほども法廷に立たされた」というくだりがある。
 これを手掛かりに、当時の新聞記事を探したところ、昭和8年に南勢地域の漁村を舞台に村全体を巻き込んだ大規模な嬰児殺し事件が起こっていたことがわかった。事件の発端は、この村に住む2名の女性が自ら出産した子を生計困難という理由から分娩直後に圧殺した容疑で取り調べを受けたことであった。その後、取り調べが進み事件の全容が明らかになってくると、「全村に拡がる 嬰児殺しの戦慄」と新聞にも大きく報じられた。この地域では、従来一家の子どもが3〜4人以上生まれると生活苦から堕胎を行うということがあったようであるが、大正14年ごろ一斉検挙にあったため、発覚しやすい堕胎を避け、昭和3年以降、嬰児殺しの方法を採るようになったという。生まれた子どもは性別の確認もせず、直ぐ産婦自らが扼殺(やくさつ)し密葬していた。
 また、昭和7年生まれられのエッセイスト・川口祐二氏は、「渚の五十五年」(『私の昭和史』岩波新書)のなかで、事件にも触れ、当時の漁村の「疲弊の深刻さ」を記述しておられる。
 以上、二つの事件には、いくつかの共通点がある。当時の経済状況が不況・恐慌という深刻な時期であったこと。既に希望子ども数を持つ夫婦が予想される貧困を回避する目的で行ったこと。地域的に広がっていたことなどである。こうしたことから、そのときの新聞が「旧藩時代の間引きの風習」、「長い間の風習」、「怪習」と事件の背景を述べているように、江戸時代のマビキ習俗との関係も指摘できる。
 これらの事件は、決して肯定されるものではないが、当時の深刻な経済や社会情勢を考えると、悲しく胸に迫るものがある。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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