鬼ケ城に熱い思い−日本新八景目指し猛運動
波蝕洞窟の上端が前に突き出す鬼ケ城
昨年12月、東京の民放テレビ局から熊野市にある鬼ケ城の伝説のことで電話があった。更に詳しく聞くと、昭和10(1935)年12月24日は鬼ケ城の「天然記紀念物及名勝」指定日であり、24日放送予定の番組で鬼ケ城を取り上げたいというのである。
鬼ケ城は、熊野市木本町字城山にあり、熊野灘に突き出た小さな岬の絶壁に存在する波蝕洞窟をいう。この周辺には九鬼や八鬼山など鬼の付く地名や坂上田村麻呂の伝説があって、この洞窟は古くから「鬼の岩屋」と言われてきた。また、岬の頂部には中世期の城跡が所在し、堀切りなどの遺構が見られ、「城山(じょやま)」という小字名も納得できる。
指定は大正8(1919)年に成立した史蹟名勝天然紀念物保存法に基づくが、鬼ケ城の地質学上の価値を全国に紹介したのは脇水鉄五郎博士であった。応用地質学の第一人者で、晩年は全国の天然記念物や名勝の調査を行われたらしい。博士が初めて鬼ケ城を探勝したのは昭和4年4月で、翌5年5月の雑誌『史蹟名勝天然紀念物』に「天井の前端が著しく前に突出す…鬼ケ城は波蝕洞窟の処女形を有し…五段の石階は…数回に亙る土地の突然的隆起を示し」と、学問上貴重な天然記念物であることを力説した。
また、その報告には、昭和2年に「日本新八景」の投票があって鬼ケ城の存在を知ったとも記されている。そこで、当時の『紀南新聞』を見てみた。すると、鬼ケ城の記事がほぼ毎日掲載されていて、「鬼ケ城を何とか全国に宣伝したい」という地元の人たちの熱い思いが伝わってきた。
大正14(1925)年、木本町会では「鬼ケ城宣伝の設備に関する建議」を採択し、昭和2年1月26日には「名所旧蹟を保存し景勝の地に適宜の施設」を作る木本保勝会が設置された。そして、保勝会が中心となって、立札・案内人・売店の設置や道路改修などの計画を立て、宣伝歌「木本節」の募集も進められた。
そんな矢先、大阪毎日新聞社主催で「日本新八景」選定の投票が行われることになった。木本保勝会では「宣伝の好機」とし、積極的に投票に取り組んだ。最初は町内1戸3枚ずつの投票を割り当てたが、全国の投票が進むと、それだけでは足らなくなった。青年団・婦人会・会社などの大口投票、映画会入場料でのハガキ代獲得、町内班交替のハガキ書き、周辺の村々有志の投票依頼など、猛運動を展開した。その結果、5月20日の締切には総数が約115万1千票にも達した。当時の南牟婁郡全体の人口は5万6千人ほどで、その票数の多さがわかるが、「日本新八景」海岸の部には室戸岬が選ばれ、鬼ケ城は8位に入選した。入選祝賀会が開催され、提灯行列も行われた。また、三共キネマ会社による映画「鬼ケ城」も撮影された。
一方、鬼ケ城の遊覧道路改修は、町民が「弁当と鍬や鶴ばしを持って」奉仕作業に出動した。延人数約千人で、多い日には300人にも及んだという。こうした木本町民の努力があって、ようやく鬼ケ城が広く知られようになり、昭和10年には天然紀念物及名勝に指定されたのである。
ただ、現在よく利用される『地名辞典』「鬼ケ城」の項では、指定年月日が「昭和33年6月24日」となっている。確かに、昭和33年に名称変更や別指定であった「獅子巖」との統合がなされているが、観光客にアピールするためにも、やはり本来の昭和10年指定を明記し、それに至る地元の熱い思いを語り伝えていく必要があると思う。
(県史編さんグループ 吉村利男)