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町村会結成 全国運動に−義務教育費国庫負担 三重から声上げ


写真 大紀町野原地区にある大瀬東作の銅像

写真 大紀町野原地区にある大瀬東作の銅像


 義務教育費国庫負担金の削減について、昨年夏から繰り返し報道された。小泉内閣の「三位一体の改革」に伴う3兆円の補助金削減と地方への財源移譲の一環である。本年度予算編成では、暫定措置として同負担金2兆5000億円のうち8500億円を2年間で削減し、最終的な取扱いは中央教育審議会で結論を得ることとした。本年10月26日、同審議会は「教員給与費を保証するこの方法は優れた制度で、これを維持する」との報告を出した。しかし、政府の既定方針は固く、来年度予算案決定までには紆余曲折が予想される。
 ここでは、大正時代に義務教育費国庫負担制度の確立に奔走した人物を紹介しよう。それは、三重県の度会郡七保村(現大紀町)の大瀬東作村長である。彼が全国町村会副会長として義務教育費の国庫負担制度の確立に尽力したことは伝記などで知られてはいるが、問題となっている今、改めて大瀬の活動を見てみるのも大切に思う。
大瀬東作は、1885(明治18)年に野原村(89年村制施行以降、七保村)で生まれ、1915(大正4)年31歳で七保村助役になり、18年には村長に就いた。
 当時、小学校教員の給与は町村が支給していたが、第一次世界大戦に伴う好景気から来た物価高や戦後の不況などで町村財政は逼迫していた。財政基盤の弱い町村では、職員給与の遅配や減俸が頻繁にあったという。政府は、18年に小学校教員の待遇改善のために市町村義務教育費国庫負担法を定め、1000万円を交付した。この時点の全国の小学校教員給与の総額は5000万円弱で、交付額はその20%であった。しかし、同年、政府は物価高騰に対応して市町村教員給与を20%程度上げさせたため、交付金の1000万円は、その値上げ分で消えてしまうことになった。大瀬が七保村長に就任したのはこのような時期であった。
 翌19年6月、度会郡内町村長会議の席上、度会郡長は県の方針に従って郡内教員に一律5割の臨時手当の支給を指示したが、各町村長は町村財政に与える影響の大きさから、こぞって反対した。大瀬も郡長を詰問したが、撤回不可能なことを悟った彼は、会終了後に列席の町村長に対し教員給与の問題は全国の町村長が一致団結してこれに当たることの必要性を唱え、出席者も大瀬に託した。以後、5年間にわたる大瀬の義務教育費国庫負担金増額運動が始まったのである。
 大瀬は組織づくりを始めるとともに、さまざまな機会にこの問題を訴えた。全国に同憂の町村長を募って内閣や国会などに請願も行った。20年10月には三重県町村会を結成し、会長に三重郡下野村の下田亨三村長、副会長には大瀬が推されたが、この結成総会においても「本会ハ全国各府県市町村会ト相提携シ、小学校教員俸給国庫支弁問題ノ徹底的解決ヲ期ス」という特別決議を行った。また、21年2月には全国町村会も結成にこぎつけ、設立総会で大瀬は副会長に選ばれ、小学校教員給与費の解決を第一事業にあげた。こうして大瀬たちの運動は全国に拡大した。
 第1次大戦後に登場した加藤友三郎内閣は、軍備縮小によって生じた剰余財源を内政の諸課題に振り向け、それに伴って23年3月の帝国議会で義務教育費国庫負担金を4000万円に増額した。大瀬は常に「義務教育の経費はすべて国家が支出すべきで、その分を公共事業や住民福祉に充てることができれば、地方が豊かになる」と考えていた。とすれば、この増額も満足のいくものでなかったかもしれない、
 この年、大瀬は全国町村会副会長を辞任し、次いで七保村長も辞職した。大瀬の去った後も全国町村会は国庫負担金の増額問題を訴え続け、1940(昭和15)年には、小学校教員の給与費負担を県に移管し、定額負担から給与費総額2分の1の定率負担へと法改正した。ようやく大瀬の構想に近づいたわけであるが、その実現を見ることなく38年に他界されてしまった。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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