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志摩の海藻からヨード−製造工場は一時50カ所


ヨード・塩化カリウムの生産額の推移を著したグラフ

ヨード・塩化カリウムの生産額の推移を著したグラフ


 明治後期から昭和初期にかけて、志摩地方は全国でも有数の化学薬品製造地帯であった。こう聞けば、誰しも「えっ?」と思うであろう。しかし、これは事実なのだ。
 その化学薬品とは“ヨード”である。ヨードとは、正式にはヨウ素という。ヨードチンキやのどの炎症を抑えるルゴール液の原料と言えば、みなさんも馴染み深いだろう。当時も医薬品の原料を中心に幅広く工業に利用されていた。その産業の牽引役を担ったのは、和具村(現志摩町)の石原圓吉で、1912(明治45)年彼が鳥羽町に設立した三重沃度(ヨード)製造株式会社は、全国でも指折りのヨード製造会社に成長した。
 1918(大正7)年に刊行された『三重県史』では、県内の化学工業を紹介するなかで「沃度」の項を設けており、当時は非常に盛んな産業であったことがわかる。
 この頃、ヨードの製造にカジメやアラメといった海藻が用いられた。志摩地方がヨード製造地帯となったのは、原料の海藻が容易に入手でき、それを採る漁民の貴重な収入源となったからであった。当時、志摩地方で行われていたヨード製造法の記録も、師範学校生が作成した「三重県郷土誌」などに見られる。
 志摩地方では、1892年に片田村(現志摩町)の山本萬右衛門が粗製ヨードの試作に成功したのが最初で、その後、石原圓吉と共にヨード製造とカジメ採集の有益性を説いて回った。その結果、一時ヨード製造工場は50か所にも及んだという。鳥羽や甲賀村(現阿児町)は特にヨード製造が盛んな地域であった。1907年には三重県沃度組合が創立し、12年4月、それを母胎とする三重沃度製造株式会社が誕生した。同会社は、ヨードのほかに、マッチの発火剤や染色剤・肥料などの原料になる塩化カリウムを製造していた。これもカジメからできた。会社設立当初は、政府の産業保護政策や第一次世界大戦の大戦景気の追い風に乗って、急成長を遂げた。一層の量産化を企図し、北海道のほか全国各地、さらに朝鮮の済洲島にも製造工場を建設した。この頃の三重沃度製造株式会社の生産物製造価額は、全国の3分の1に達したとも言われている。
 試みとして、別図のような生産額の動向をグラフにしてみたが、これによると、ヨードと塩化カリウム製造が日露戦争期と第一次世界大戦期に突出していることがわかる。特に、18年の塩化カリウム生産は驚異的な伸びを示した。これは戦争による影響でイギリスやフランスからの輸入が途絶え、国産品の需要が高まったためである。しかし、戦争が後わり再びヨーロッパ産の安価な薬品が入ってくると、大きなダメージを受けた。実際、三重沃度製造株式会社も、20年には赤字を出し、資本金の減額も余儀なくされた。
 このように、志摩の化学薬品産業は、2度の戦争で大きく浮沈を繰り返し、第一次世界大戦後は27(昭和2)年を境に斜陽化し、やがて姿を消していった。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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