県内に数多く残存の棟札−神社合祀で1ケ所に集められ
植木神社に伝わる棟札
棟札(むなふだ)とは、建物を新築または再建、修理した際に、施主や施工者(大工)の名前、年号などを記した細長い板のことで、通常は上部が駒形で棟木に打ちつける。古い時期には棟木の下面に直接書いた棟木銘(むなきめい)が多いが、鎌倉時代の中ごろからは棟札が増えてくる。
棟木銘は、文字通り棟木の下面に書くため、字数も限られ、記載も簡単である。棟札も最初は同様であったが、時代が下がるにつれて詳しく書かれるようになり、中には板の裏面にも書くなどして、近世以降はかなり長文のものも造られるようになった。
棟札は建物が失われても残ることが多く、現存する建物と棟札が必ずしも一致するとは限らない。これは、遷宮などにあわせて社殿を造替する神社建築に多く見られる現象で、一つの神社に10枚以上の棟札が残ることも決して珍し ことではない。
棟札は、建物の歴史を知る上で最良の資料となることは言うまでもないが、大工や木挽(こび)きの名前から技術者の系統や動向、さらには建築に関わった地域の有力者たちの状況もわかるたいへん貴重なものである。
三重県内には、こうした神社棟札が数多く残存している。前述したように、社殿の造替を行う神社が多く、その都度棟札が造られたからであるが、もう一つの原因は明治39(1906)年ごろから政府が断行した神社合祀(ごうし)政策によるものである。特に三重県では神社合祀が強力に進められ、明治36年に1万524あった神社が大正2(1913)年には1165にまで減少した(『三重県統計書』)。それぞれの神社に伝わっていた棟札が一ケ所に集められたため、結果としてかなりの数の棟札が残ったのである。
代表的なものとして、安芸郡芸濃町の美濃夜神社には久安5年(1149)以降の棟札枚、名賀郡青山町の種生神社には応永年(1419)銘のほか7枚の棟札があげられる。これらは時代も古く、既に三重県の文化財に指定されているが、県内の神社に残る棟札のほとんどは近世以降ということもあって、あまり注目されてこなかった。
たとえば、阿山郡大山田村の植木神社には、なんと275枚の棟札が残されているが、それら膨大な数の棟札は、大部分が未調査の状態であった。8年前の神社建築調査では、それら1点1点を計測し、写真撮影を行った。大きさについては、小さいものは18p、大きなものは1m40pにわたり、時代も、天正19年(1591)から江戸時代を通じて明治の神社合祀に至るまで連綿と続いている。また、内容も本殿や鳥居の造替や修造、屋根の葺き替え、再彩色等、氏子の人々がいかに神社の維持管理に力を注いできたかがうかがえるきわめて興味深いものであった。
このような詳細な調査も、最近では市町村教育委員会などが中心になって次第に実施されるようになってきた。熊野市や御浜町では、既に調査報告書が刊行されている。県史編さん事業でも、かなりの数のデータが蓄積されてきており、そうした成果についてはいずれ紹介したいと考えている。
(県史編さんグループ 瀧川和也)