トップページ  > 発見!三重の歴史 > 「士族編入と禄高復活を」−「猟師谷」の鉄砲組子孫が要求

「士族編入と禄高復活を」−「猟師谷」の鉄砲組子孫が要求


「復族請願書」「禄高整理公債証書御給与願」(県庁文書)

「復族請願書」「禄高整理公債証書御給与願」(県庁文書)


 三重県庁には、多くの明治期の公文書が残されている。中には「こんな資料があったのか、へぇー」と感心することがいくつもある。今回は、その一つを紹介してみよう。
 それは、伊賀の藤堂新七郎家に属した鉄砲組の子孫11名が明治31(1898)年に提出した復族・復禄申請書である。藤堂新七郎家は、松尾芭蕉が仕えたことでも知られているが、初代良勝が藤堂高虎の従弟という家柄で、津藩伊賀付の中では城代家老に次ぎ5000石が給された。『家中軍役覚』によれば、5000石の者は鉄砲10挺を備えることになっており、復族・復禄申請書の鉄砲組の子孫11名も納得がいく。
 この復族申請とは、士族への編入願いである。すなわち、江戸時代に武士身分であった人たちは明治維新後、士族や卒族とされた。やがて卒族が廃止となると、一部は士族になるが、士族に編入されなかった者も多くいた。この鉄砲組も一時は卒族となったものの、明治4年の廃藩置県を前に卒族を「解放セラレ」た。そのため、何回か士族編入願いを繰り返し、27年経った明治31年になっても依然として子孫が士族編入を訴え出たのである。
 また、この鉄砲組の人たちは「藤堂新七郎神戸村領分之内ヨリ夫々永世禄ヲ給与」されていた。1人当たりおおよそ年間13〜16俵の給米であったらしい。しかし、明治4年に卒族を解かれて禄(給米)がなくなってしまった。のち復禄の嘆願もなされたが、認められることはなかった。そして、明治30年11月には「家禄賞典禄処分法」という法律が公布され、明治9年に禄高に対する金禄公債証書(いわゆる秩禄処分)を受けなかった者などは1年以内に限り公債証書の給与を願い出る機会が作られ、明治31年には多くの復禄申請書が大蔵大臣あてに提出された。県庁にもその控えが残っていて、番号順に整理すると345件にのぼる。1件に100人以上がまとまって申請したものもあり、その人数は膨大である。鉄砲組の復禄申請書もその1件で、9月10日に復族申請と共に「禄高整理公債証書御給与願」として出された。復族は「詮議及ヒ難シ」という通知があり、復禄も認められなかったと思われる。
 なお、この鉄砲組子孫の住まいは名賀郡神戸村大字下神戸(現上野市)で、慶長13(1608)年藤堂高虎が伊予国(現愛媛県)から移封となったときに、新七郎や鉄砲組の人たちも付いて伊賀に来たという。そして、新七郎は5000石のうちの3000石を下神戸村などで賜り、地内の「猟師谷」を開墾し、新七郎も当初はそこに住んだが、勤務の関係から上野丸之内に移住したと記している。新七郎が実際に居住したかどうかは確証がないものの、鉄砲組の面々は「其当時ヨリ今日ニ至ル迄猟師谷ニ住居」してきたとあり、「猟師谷一統之者」という表記も見られる。
 そこで、上野市域の住宅地図を見てみると、大字下神戸の谷間に通称「領主谷」というところがある。しかも、そこにある住宅の名義には明治31年の復族・復禄申請者と同じ苗字が並んでいる。戸数も12軒とさほど変わっていない。鉄砲組の「猟師谷」が、いつの間にか藤堂新七郎の領地と絡んで「領主谷」になったのかもしれないが、今に数百年の歴史を感じさせる。

(県史編さんグループ 吉村利男)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る