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「保勝」の祖 田中善助−「風景守れ」と国会に請願


「風景保護請願理由書」と請願時の田中善助(『鉄城翁伝』)

「風景保護請願理由書」と請願時の田中善助(『鉄城翁伝』)


 紅葉の時期、自然豊かな渓谷や寺社・庭園などは多くの人でにぎわっている。
 最近、こうした自然や文化遺産は、史跡・名勝・天然記念物といった単体の保護だけでなく、「景観保護」も盛んに論議され、条例を制定する地方自治体も増えつつある。県内では、特に本年7月世界遺産に登録された熊野古道に関して、2002(平成14)年に関係市町村で「熊野参詣伊勢路景観保護条例」が定められた。熊野古道の魅力は、史跡となる石畳みの道だけでなく、永い年月を経て育まれてきた周囲の森林と相まって醸し出されるものであり、これらの景観をも保護していこうという趣旨である。
 さて、今から100年以上も前の1892(明治25)年、「風景保護」について当時の帝国議会に請願をした者がいた。これが我が国最初の風景保護の請願で、実はその請願者は三重県人であった。伊賀上野の田中善助で、彼は巌倉水電・伊賀鉄道・朝熊登山鉄道等の創始、さらには榊原温泉の復興など、様々な三重県の事業に携わった実業家である。「鉄城翁」とも呼ばれ、三重県の近代史上著名な人物である。
 請願は彼が35歳のときで、提出した請願書そのものは見ていないが、現安濃町出身の三重県会議長の家から「風景保護請願理由書」が発見され、既に『三重県史』資料編にも収録している。この「理由書」によれば、徐々に自然豊かな風景が破壊されていくのを嘆き「風景保護ノ制」を立てる必要性を訴えている。
 たとえば、奈良県の月ヶ瀬は梅花で知られ、静かで山水もきれいである。そこに道路がつけられ、洋風の橋が架けられたので、景色が大きく損なわれた。また、郷土の中瀬峡も「風勝ノ地」であったが、近年左岸の山腹が穿たれ、道が開かれたため、「老松奇石」がその被害を受けた。ほかにも、春日山・三笠山、嵐山・保津川など、奈良や京都の有名な景勝地の風景破壊の事例を掲げ、「風景保護ノ方法」を提案した。その方法とは、「風致区・名所区(社寺古蹟古墳墓)ヲ立ル事、土木大事業ハ風致区内ニ起工スヘカラサル事、風致区外ト雖トモ有名ノ樹石ハ切ル事ヲ禁スル事、風景ヲ損シ遂ニ国体ノ害トナル可キモノハ漸次取払、若クハ改良ヲ為サシム可キ事」などと、具体的であった。
 しかし、この請願は、委員会は満場一致で通過されたものの、衆議院本会議では会期の都合もあって可決には至らなかった。ただ、当時の成川尚義三重県知事は、「意見は非常に好い。……請願書のとおりには法律としては出ないが、そのうち何か形が変わって出るだろう」と言ったという。そして、やがて有名な樹石や名所旧跡の保護、古社寺保存という問題が出てきた。さらに、「私の一片の文書によって天下の世論を動かしたとはいいませぬが、……いたるところに保勝会というものができ」たと田中善助自身が語っている(1944年発行『鉄城翁伝』)ように、請願の後まもなく三重県でも保勝会が誕生した。
 それは赤目保勝会で、田中善助が直接関与したのではないが、赤目四十八滝を中心とした渓谷の風景を保護しようと1898年に組織された。「赤目四十八瀑保護、樹木栽培・水源涵養、道路改修、旅館・茶亭建設」などの事業を行い、『赤目四十八瀑名勝誌』も刊行した。
 なお、「保勝」という熟語は、『日本国語大辞典』や『大漢和辞典』には掲げられていないが、景勝地を保つという言葉の意味は、まさに「風景保護」である。今年の一月、たまたま赤目渓谷保勝会の副会長にお目にかかり、今も「保勝会」という名称が続くことにいささか驚くとともに、100年以上の風景保護に対するこだわりを感じた。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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