合併重ね廃棄の危機−旧町村役場の文書
ていねいに編綴された旧八ツ山村役場文書(白山町教育委員会提供)
今、「平成の大合併」が進んでいる。来年1月には津市及び周辺9市町村のほか、県南端部の鵜殿村と紀宝町の合併など、予定の合併がすべて完了する。これで合併前13市49町7村の計69の自治体は、14市15町の計29となり、村は全くなくなってしまう。
1889(明治22)年4月1日、市制・町村制の施行によって約1、800の町や村が1市18町317村の計336の自治体に統合された。初めて市町村長が置かれ、現在につながる地方自治の基盤ができた。そして、第2次世界大戦後には、1953(昭和28)年10月1日施行の町村合併促進法に基づき、「昭和の大合併」と言われる大規模な合併が実施され、56年9月末には県内市町村数が12市40町36村の計88と大きく減少した。
このような市町村合併は様々な地域の事情を抱えて進むが、いったん合併されると、新しい自治体の機能が大きく左右する。そのため、行政上で必要性が少なくなった旧町村役場文書は処分される。事実「昭和の大合併」の際にも多数の文書が廃棄された。今回の合併に伴っても旧町村役場文書の散逸が危惧される。特に、旧町村は地方自治の基盤で、今も小学校名や自治会組織などにその名を残し、身近な地域の区画である。しかし、自治体としては先々代の組織になってしまうわけで、旧村役場文書は行政上では一層必要性が少なくなり、ますます廃棄される恐れがある。
そうした中で、来年1月新しく津市となる一志郡白山町では残存する旧村役場文書の整理を進め、将来に向けての保存策が講じられている。それを紹介してみよう。
白山町は、「昭和の大合併」が進む1955年3月15日に家城町、川口・大三・倭・八ツ山村の1町4村が合併して成立した。このうち、役場文書が最も多く残るのは旧八ツ山村である。八ツ山村は1889年に古市村・稲垣村・八対野村・山田野村が合併して成立した。ちなみに、村名は、合併村の中で大規模な八対野村の「八」と山田野村の「山」をとって「八ツ山村」としたらしい。以後、白山町となるまで、66年間の村役場の公文書が大量に残されている。また、城立・小杉・大原・福田山村の合併により成立した境村も、1940年11月3日に家城町に編入されるまでは八ツ山村役場と事務組合を組織しており、境村の関係公文書も見られる。
特に、1918(大正7)年12月〜1946年11月の村長・杉本英一は、公文書の整理・保存を精力的に行い、写真のように公文書類をていねいに編綴し文書棚に整理してきた。しかし、長年月の間に劣化した文書も多く見られ、今後の保存に向けて適切な処置を講ずる必要があり、専用の中性紙文書箱に年次別に整理して詰め替えた。箱数114箱・史料総数約3、400点になったという。内容的には、村会書類をはじめ条例・規定、勧業・衛生、庶務関係など各種ある。中には、第51連隊(のちの第33連隊)誘致のための用地買収費を津市や一志郡各町村が分担したという注目される史料もあって、県内に残る旧村役場文書では分量・内容とも屈指のものであると思われる。
また、旧倭村役場文書もかなり保存されていた。1889年の村制施行では佐田村・中ノ村・上ノ村・南出村・垣内村が合併して佐田村が成立し、2年後に倭村と改名された。文書は旧役場の2階に埃にまみれて残存していたので、埃を落とし防虫剤を入れて中性紙文書箱に詰めた。文書箱にして66箱・史料総数約2、000点に及ぶらしい。内容的には絵図・地図を含め勧業・土木に関する史料があり、参宮急行電鉄建設関係史料なども見られる。また、戦後の史料も多く、当時の混乱した社会の様子がわかる貴重な史料群である。
このように、旧八ツ山・倭村の役場文書は残存率がよく、地域を知る重要な手掛かりになる。これらを適正に保存し将来に継承していくため、白山町では町文化財としての指定手続きが取られていると聞く。他の市町村でも旧町村役場文書が残存しているところが多数あり、これらが大切に保存される手立てが取られることを願ってやまない。
(県史編さんグループ 吉村利男)