トップページ  > 発見!三重の歴史 > 新たな活路を求めた業界−地ビール相次ぎ誕生

新たな活路を求めた業界−地ビール相次ぎ誕生


伊勢新聞に掲載されたビールの広告

伊勢新聞に掲載されたビールの広告


 かつてビールは夏の風物詩であったが、今や一年を通して愛飲されるようになった。少し前には各地に地ビールブームが起こり、いまだに根強い人気がある。
 国産ビールの誕生は明治初年と言われるが、三重県でのビール産業は今から120年ほど前の明治20(1887)年前後に始まった。今日は、三重県で誕生したイトービールと神都ビールについてお話しよう。
 三重郡室山村(現四日市市)出身の実業家伊藤伝七(10世)は、明治19年10月にビール醸造に着手した。彼は三重紡績会社(のちの東洋紡績会社)の創立者として有名であるが、元来酒造業を営んでおり、イトービールの開発にも尽力した。
 当初は横浜より技師を招いて担当させ、良質のビールを製造するため、21年に自営の清酒醸造場に酒造試験場を併設し、東京職工学校醸造科の卒業生畑中諄治を招いて醸造法を研究させた。原料には三河産の大麦と、地元室山の天然水が使用された。味は伊藤が慕ったドイツ産ストックビールに劣らず「精醸」という評を得た。販売は四日市浜町の三星商会を介し、特約店を通じて全国に送られた。
 ほぼ同じ時期、度会郡河崎町(現伊勢市)の清酒問屋西田七左衛門(川七)がビール製造所を新設し、神都ビールを生み出した。20年5月には県庁に酒造検査を願い出ている。伊勢新聞に掲載された同ビールの広告によると、販売先は県内はもとより、愛知(名古屋・知多・三河)・岐阜の隣県のほか、東京・大阪・兵庫にも及んでいる。
 では、なぜ同時期に三重県でビールが作られたのか。
 その理由の一つを三重県酒造業界が直面していた当時の状況に求めることが可能ではないだろうか。それは伊勢湾対岸の知多半島で清酒の品質改良に成功し、次第に販路を三重県内に伸ばしていたことと、鉄道網の発達によって背後からは兵庫県灘の酒が三重県産の清酒市場を脅かしつつあったことである。こうした状況から県内の酒造業にとって市場競争力をつけることが急務として強く意識されるようになっていった。明治19年には有志酒造家が三重県酒造改良協会を組織し、三重郡日永村(現四日市市)に事務所と試験場を設置した。しかし、この試みは協会内で方針の一致をみず、まもなく同協会は解散状態となった。伊藤伝七が独自の試験場を設置し畑中氏を招聘したのは、こうした流れを受けてであった。
 折しも洋酒が次第に人々に好まれるようになり、商い敵の知多半島でもカブトビールの製造が開始される動きを見せるなかで、両名がビール製造を起業したのは、酒造に関わる者として新たな活路を見出そうとしたためだったのであろう。
 ただ、残念ながら、両ビールがいつ頃まで生産され、どの程度シェアがあったのか、その後の歴史は依然謎である。今後、史料の発見に努めたい。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る