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デ・レーケの四日市港修築構想−近代国家建設に功績


デ・レーケのメモが書き込まれた「四日市港近傍町村之図」(三重県庁所蔵)

デ・レーケのメモが書き込まれた「四日市港近傍町村之図」(三重県庁所蔵)

デ・レーケの鉛筆書きメモ

デ・レーケの鉛筆書きメモ


 明治初期、日本は近代的学術と技術の移入を積極的に進めるため、欧米諸国から多くの外国人を雇用した。彼らは「御雇(おやとい)外国人」と呼ばれ、わが国の近代国家建設の過程で多大な功績を果たした。
 今回紹介するのは、四日市港の近代化に影響を与えたと言われているヨハネス・デ・レーケに関する一つの発見である。
 彼は1842年にオランダで生まれ、明治6年(1873)に内務省土木局の御雇外国人として来日。淀川河川改修や木曽三川分流工事、三国港(現福井港の一部)築港工事など各地の土木水利工事を指導して有名である。
 四日市港との関係は、明治9年に三重県の岩村定高県令が調査を依頼したことに始まる。当時の四日市港は、東京航路開通に伴って、東海・北陸・近畿の各地方から京浜・東北方面へと出入りする旅客や貨物のすべてが経由するという状態で、大変なにぎわいを見せていた。しかし、安政元年(1854)の大地震による堤防決壊などで、港口が流砂に塞がれるようになり、次第に荷役が困難になってきていた。
 このままでは四日市港が衰退するとの危機感を持った地元の資産家・稲葉三右衛門は、私財を投じて港の修復を行い、やがて明治17年5月に現在の「旧港」と呼ばれる部分が完成する。こうした動きの中、三重県では新たな四日市港修築計画が懸案となっていた。
 デ・レーケは、何度かの調査を経て明治19年(20年とも言われる)に計画図を提出するが、その内容は、稲葉三右衛門が築いた港の南側に新たに大規模な港を造るというものであった。結局、財政難のために着工されなかったが、この計画が後の四日市築港の原型とされている。
 彼が四日市築港計画に携わったことは、「履歴書」(国立公文書館蔵)や四日市港の歴史を記した各種の文献には述べられていたが、それを具体的に裏付けるような史料は今まで見つかっていなかった。
 ところが、平成9年、三重県史編さん室が所蔵する「四日市港近傍町村之図」の港湾部分に鉛筆の書き込みがあり、それが研究者の調査によってデ・レーケ自筆のものと判明した。四日市港の歴史を考える上で貴重な発見であり、注目された。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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