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稲葉三右衛門の「夢」未完?−直後に県が築港事業構想


JR四日市駅前の稲葉三右衛門銅像

JR四日市駅前の稲葉三右衛門銅像


 JR四日市駅前に、稲葉三右衛門の銅像がある。四日市市民なら彼を知らない人はいない。彼は、四日市の発展には港の整備が必要と決意し、自分の財産をすべてなげうって工事を行った。途中幾多の困難にも屈せず、1873(明治6)年3月の工事開始から11年あまり、84年5月に念願の港を完成させた。その港は、波止場の長さ400メートル、造成地面積4万6千平方メートルで、以後、四日市の商工業発展に貢献してきたというのである。
 ところが、詳しく四日市港の歴史を見てみると、三右衛門の完成と1か月しか違わない6月の臨時県会で早くも「四日市築港ノ義」が議論されている。内容は、四日市築港事業が政府直轄となるよう請願の是非を問うものであったが、その主旨説明の中で、岩村定高県令は四日市港について「海ニ波止場ノ設ケアラザル」とか「築港ノ計画未タ定マラサレハ」と発言している。
 三右衛門が築いた港がありながら、県が築港の計画は定まっていないと認識したのはなぜか。実は、この時点で三右衛門の港は完成していなかったのである。それを示す証拠が四日市市立博物館に保管されている。それは、三右衛門が翌85年10月24日に県に提出した「四日市両波止残業仕様概算書」・「四日市港新開地残業仕様概算書」という2冊の書類である。「波止」は波止場、「新開地」は造成地を指し、「残業」とはやり残した事業を意味する。ここで詳細は書けないが、かなりのやり残しがあった。
 また、臨時県会の場で伊賀上野出身の立入奇一議員が「若シ…築港ニシテ稲葉ノ覆轍(ふくてつ)ヲ踏ミ…稲葉ノ波止場ヲ覗ルカ如キ感ヲ起サシムル…アラハ議会ノ体面果シテ如何ソヤ」と四日市築港工事の延期を主張しているが、「稲葉ノ覆轍」、すなわち「稲葉の失敗」という見方もあった。
 また、臨時県会の7カ月前、岩村県令は四日市港の欠点を2つ指摘している。1つは波止場がないので、波が高いときは本船から貨客を降ろし港内に輸送する小船が往復できないこと。もう一つは、暴風の際、本船の避難場所がないことであった。
 県は、本船も波止場内で待機可能な巨大な港を構想していたが、これらが可能な港を築くには、少なくとも総工費50万円はかかるとみていた。三右衛門の築港は工費総額が7万円程度であったから、随分規模が違う。それに、たとえ稲葉の港が完成しても、本船はあくまで港外で待機する構造となっていた。
 以上を考え合わせると、三右衛門は、県が巨大な築港構想を臨時県会に提案する動きを知り、いったん工事を中断して残務を政府管轄事業に期待し、動静を見守ったと言えそうである。
 また、4万6千平方メートルの造成地は、これまで港の一部として紹介されることが多かったが、これは主に三右衛門の私有地として埋め立てたられたものであって、公共地ではなかった。81年から借地料を徴収し、87年ごろの借地収入はおよそ4千円で、その半分を築港工事の債務返済に充てた。稲葉三右衛門も実業家であり、そうした経営も見越して築港工事に取り組んだわけである。
 四日市発展のためには港の整備が肝要と先見したのは稲葉三右衛門であったことに間違いないが、「私財をなげうって、最後まで屈することなく港を完成させた」点を強調した戦前の風潮に惑わされず、四日市港築港の歴史を冷静に見てみることが必要と常々感じている。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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