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香り立つ「伊勢茶」の名声−いちはやく海外にも販路


『第二回 製茶共進会一件』(県庁文書)

『第二回 製茶共進会一件』(県庁文書)


 茶摘みの時期、ゴールデン・ウィークには県内各地でお茶に関する様々なイベントが行われた。やはり、三重県は「伊勢茶」が有名なお茶処で、現在の生産高や茶栽培面積は静岡・鹿児島県に次ぎ全国3位であるという。
 ところが、明治前期には三重県が全国1位の生産額を誇っていた。そのことは、1883(明治16)年に神戸で開催された第2回全国製茶共進会の『共進会報告 審査ノ部』に「三重県 伊勢国ハ産茶著名ノ地ニシテ産額ハ全国ニ冠スル」と記されていて裏付けられる。
 全国製茶共進会の第1回は79年に横浜で開かれたが、その開催には三重県飯高郡宮本村(現松阪市飯高町宮本)出身の大谷嘉兵衛が尽力した。大谷嘉兵衛は、若くして横浜に出て、日本茶輸出に関して重要な役割を果たした人物であり、のちに「茶聖」とか「茶業王」とか呼ばれた。特に開港後の幕末・明治初期、日本茶は生糸と共に重要な輸出品で、伊勢茶が大半を占め、彼の力によって伊勢茶の多くが横浜に送られ、海外に輸出された。
 第1回の製茶共進会の資料は県庁にないが、第2回の製茶共進会に関しては、写真のように県庁に一部公文書が保存されている。共進会終了後に印刷発行された『共進会報告』も収集している。それらによると、この共進会には三重県の出品は289人・305点で、現在茶業が盛んな三重郡水沢村(現四日市市)からも多く出品されている。共進会の結果、三重県の受賞者も多数あり、中には当時の伊勢茶振興に努力した駒田作五郎や伊藤小左衛門の名前も見られる。奄芸郡椋本(現芸濃町)の駒田作五郎は、横浜に送っていた伊勢茶を直接海外に輸出できないかと三重県製茶会社を組織し、アメリカの商会に直輸出した。1884年のことで、以後、短期間ではあったものの直輸出会社では全国トップの業績をあげた。また、三重郡室山村(現四日市市)の伊藤小左衛門は、製糸業でも有名であるが、開港後いち早く茶を栽培し、横浜に大量の製茶を送ってきた。
 さらに、先に引用した『共進会報告 審査ノ部』の続きを読むと、「明治四、五年ノ頃ハ其製品亦優等ノ地位ヲ占メテ需用者ノ愛顧ヲ博シタリト雖モ近来頗ル品位ヲ墜シ、伊勢茶ノ信用ヲ失ヒタル」とある。原因は、輸出のための急売による粗製濫造であった。そのため、県内では粗製濫造の習弊を矯正し、伊勢茶の声価を挽回しようと各茶業者への呼び掛けが続けられた。
 一方、現在全国第1位の茶生産地である静岡県も、当時は同様に茶の品質が問題になっていた。静岡県茶業組合聯合会議所が1935(昭和10)年に発行した『茶業五十年』に興味深い記述がある。それは、「明治初年より盛んに播種繁殖なされ、……為に製茶の品質、三重県にも劣る」というので、1882年各先進地県を視察して茶園栽培に関する諭告を出し指導するとともに、伊勢の人酒井甚四郎氏を御用係として、茶園の仕立方法などを茶業者に教え込んだというのである。この時点では静岡茶よりも伊勢茶の方がリードしていたわけで、御用係酒井氏の正体は明確でないが、このとき何人かの技術者が伊勢から静岡県に出向き指導に当たったと考えられている。その結果、静岡茶の品質改良の成果が現れ、その生産高も増えていった。
 すると、今度は三重県から静岡県に状況視察をするという情勢となった。第2回製茶共進会から10年後の1893年5月13日の『伊勢新聞』には、県係員の「静岡県製茶実況談話」が掲載され、「元我県下の茶は静岡県より上位にありたるに今日は其下位にある」としながらも「静岡県の如く好評を得せしむるは敢て難きにあらず」と結んでおり、当時の製茶品質改良への意気込みが感じられる。
 今、「三重ブランド認定制度」の一つに「伊勢茶」があるが、こうした明治期以来の「伊勢茶」の声価獲得に対する思いもそこに反映されているような気がする。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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