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知識取り入れ日々進歩―旧習の打破と近代農業


三雲町の指定無形民俗文化財「甚目の虫送り」(写真:『三重県の祭り・行事』より)

三雲町の指定無形民俗文化財「甚目の虫送り」(写真:『三重県の祭り・行事』より)


 今年は夏期の日照時間の不足によって、稲の生育が悪かった。科学の進んだ現在でも自然の力には太刀打ちできないが、昔の人々はどのように天災から農作物を守ったのだろうか。
 江戸時代まで、日照りが続いた際には、雨乞いを行ったり、虫害の対策には「虫送り」といい、松明を灯し、その明かりにおびき寄せられた虫を村境まで送った。もちろん、このことだけで凌いできたわけではないものの、こうした行為が村の生活の中で比較的大きなウエイトを占めていたことは確かなようである。
 明治16(1883)年、三重県全域を「近年稀ナル旱魃(かんばつ)」が襲った。この年の5月以降まとまった雨が降らず、特に畑作物は枯れてしまい、「野ニ青色ヲ見ズ」という悲惨な状況であった。このとき、多くの村では雨乞いが行われたらしい。江戸時代や明治時代初期庄屋や戸長を務めた上津部田村(こうづべたむら、現津市)の藤枝家の記録には、同村の干魃の様子が詳細に記されている。これによれば、旧暦5月21日から約80日間雨が降らず、一帯では村内部だけの雨乞いにとどまらず、桑名郡の多度神社まで降雨を願いに足を運んだとある。多度神社は雨乞いの神社として有名で、県外から多くお参りがあったという。また、上津部田村では、明治19年の干魃の際には多度神社だけでなく、伊勢神宮にも参拝している。必死で神頼みをしたわけである。
 その一方、明治17年9月に開催された県の第一回勧業諮問会では、「農家はいまだに古い慣習を重んじ、農業改良に取り組む者が少ない。はなはだしい者は、干魃にあって雨乞いをし、虫害を被っても祭事に奔走し、あえて灌漑や駆除を行おうとしない。これを改めるには、各村に農談会を設けて徐々に彼らを導き、農業改良を奨励するしかない」と、旧習を打破し、農談会による農業改良の奨励を提言している。
 そして、明治21年9月に開催された奄芸・河曲両郡の第二部農談会でも、上津部田村の隣村大部田村の赤塚伊助(当農談会会頭)は、前の干魃時に多くの村が氏神の雨乞い祈祷や、多度神社への参拝に奔走したことを振り返り、「一方(ひとかた)ナラサル費用ヲ抛(なげう)ツモ……終ニ降雨ナクシテ」と、雨乞い祈祷の無効性を述べている。さらに続けて「世ノ開化スルニ随ヒ人智追々進歩シ物ノ道理ヲ研究スル時期ナレハ、強テ旧弊ニノミナスムハ却テ不得策ナリ」と、日々進歩する知識を取り入れた新しい農業を強調している。人々の中に農業への新しい考えが生まれつつあったのである。
 明治10年代は、三重県でも栽培試験場が郡単位で設置され、各地で農談会が発足した。そこでは、自分たちの土地に適合した品種の発掘や改良、有効的な肥料や害虫駆除法の啓蒙が盛んに行われた。この時期は旧来の方法を受け継いだ農業と、新しい知識を導入した農業が混在したときであり、近代農業のスタート地点とも言える。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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