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ニシン肥料は伊賀地域から−博覧会出品解説書にみる流通


『第二回内国勧業博覧会出品解説書』の簿冊類

『第二回内国勧業博覧会出品解説書』の簿冊類


 県庁には、1881(明治14)年の『第二回内国勧業博覧会出品解説書』という簿冊が何冊か保存されている。以前も「発見!三重の歴史」で桑名の貝灰を紹介した際に参考としたが、この簿冊はさまざまな角度から利用できる面白い史料である。そうしたことから、個人的には、県庁所蔵文書の中でも目玉となる史料ではないかと思っている。
 この史料の存在を職場の先輩から教えてもらったとき、「これはスゴイ!」と感動した。というのは、博覧会に出品した米や麦、綿といった農作物の栽培方法が非常に細かく記録されていたからである。当時、県内の肥料の流通に関心があったので、その中に記された肥料の種類の豊富さと施用方法の多様さから、明治10年代の使用肥料について地域的特徴がわかるのではと思った。そこで、試みとして出品農作物・生産地・使用肥料などの項目に分けてデータを作成したところ、いくつか興味深い結果があらわれた。今回は、その一つを紹介しようと思う。
 それは、ニシンを原料にした海産肥料の使用地域についてである。ニシン肥料とは、イワシを原料とする干鰯と同様、購入肥料(金肥)の一種で、江戸時代から現在の北海道を中心に生産されていた。
 ニシン肥料は幕末期になって多少は県内へも入ってくるが、あくまでも主流は干鰯や鰯〆粕であって、一般的に三重県を含めて東海地方への流入は明治時代になってからとされている。特に、明治20年頃には、四日市の田中武兵衛のように北海道に支店を開き、現地の漁業家から直接購入するような肥料商も現れて、四日市港を中心に飛躍的に流入量を伸ばした。
 ところが、先の博覧会出品解説書のデータでは、既に明治年代の半ばに、伊賀地域に限って盛んにニシン肥料が使用されていることがわかった。そのほかの地域では、まだ干鰯や鰯〆粕が中心であったとき、ニシン肥料が受け入れ口となる伊勢湾沿岸地域を飛び越えて、海に面しない伊賀で使用されていたのである。
 また、三重郡菰野町財産区に伝わる史料でも、1784(天明4)年に、干鰯の値が高騰したため、「にしんと申もの江州(現滋賀県)より買寄候」とある。どうも山間部では干鰯や鰯〆粕よりもニシン肥料の方が入手しやすく、安価であったようである。ちなみに、1880(明治13)年5月当時の肥料相場を見てみると、1貫(3・75kg)当たりの単価が伊勢地域では干鰯26銭8厘、ニシン粕33銭6厘であるのに対し、伊賀地域では干鰯29銭、ニシン粕27銭5厘である。ニシン粕は伊賀地域で干鰯よりも安いことがわかる。
 それはなぜか。思うに、これらのニシン肥料は山を越えて関西方面より入ってきたのではないだろうか。滋賀県域では、18世紀前半にニシン肥料の使用が始まっているし、大坂へも18世紀後期には多量に集荷されている。近江商人やニシン肥料を北海道から輸送した北前船の活動とも密接な関係があったわけだが、三重県へのニシン肥料の使用は、こうした関西圏の影響を受けて伊賀地域などの山間部で海岸部よりも早く定着したと考えることができそうである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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