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近代のアヘン統制克明に−薬用阿片卸売特許薬舗の資料


名張市の薬局2店に伝わる「阿片売捌表」

名張市の薬局2店に伝わる「阿片売捌表」


 少し前だが、県史編さん事業の民俗調査の一環として、名張市内の薬局2店を資料調査する機会があった。その調査では、共通して阿片(アヘン)(鴉片とも書く)買受け証が多数確認された。薬局らしい資料だと思い、少し関心を持って調べてみた。
 阿片というと、「麻薬」という負のイメージが強いが、ここで扱うのは医薬用である。ただ、使い方を違えれば有害であることは同じで、アヘン戦争(1840〜42年)の教訓から明治政府は国内流通アヘンを統制下に置いた。
 1871(明治3)年8月、政府は阿片煙草の取締りと同時に、医薬用阿片の取扱規則を定め、すべての薬店で所持している阿片の品位・量目の報告と、医師に売り渡した際には、薬店と医師双方に品位と量目を届け出るよう命じた。これを受けて県内でも一斉に調査が行われた。そのため、現在県庁には、この時に提出された度会県管内の届出書が80点あまり残っている。
 阿片をどのように医薬に供したのか、当時の事例を先ほどの届出書で探ると、山田の一志久保町(現伊勢市)の医師・高沢蘇元は、阿片・真珠・桔梗・山査子(さんざし)・熊胆(くまのい)・甘草(かんぞう)・黄連(おうれん)の7種を練り込んだ丸薬「涼肺丸」を製造していた。薬名や咳を押さえる生薬が多く含まれていることから、咳止め薬だったと思われる。
 また、当時、県内に通用していた阿片には外国産と日本産があり、日本産では、産地が特定できるものに「津軽鴉片」と「肥留(ひる)産鴉片」があった。肥留産鴉片とは、一志郡肥留村(現松阪市肥留町、旧三雲町)で生産された阿片である。『三雲町史』でも紹介されているが、同村の阿片栽培は長い歴史を持ち、品質も優れていた。81年の内国勧業博覧会に、肥留村の玉井久兵衛が阿片を出品している。その『解説』(県庁蔵)によると、産出高は2貫300目(約8・6kg)で、代価は230円(100g2円70銭)であった。また、肥留村では彼のほかに少なくとも10名の製造人がいたようで、肥留村が県内屈指の阿片産地であったのである。
 一方、政府は78年8月に前規則を廃して薬用阿片売買並製造規則を発し、規制を強化した。それは、国内通用の阿片を内務省が統括し、地方に払い下げる体制にすること。地方庁が選定した薬店に内務省が特許鑑札を下付すること。阿片を購求する医師や薬店は彼らを通じて入手し、その際量目・住所・姓名・年月日を記した証書を提出するというものだった。さらに、阿片製造にも内務省の免許鑑札が必要になった。
 これによって、翌79年4月県内で12の薬店が「薬用阿片卸売特許薬舗」に指定された。名張郡で指定されたのは鍛冶町(現名張市)の藤野作助で、彼は97年6月に指定を辞退するまで卸売特許薬舗を務めた。その後を引き継いだのが榊町(同)の田中奈良蔵であった。
 実は、今回資料調査をさせてもらった2軒は、前後して薬用阿片卸売特許薬舗を指定された薬店であった。阿片関係の史料が多出したことに合点がいった。
 偶然の資料調査から、明治10年代から大正期までの薬用阿片の取引状態が発見できた。これらを丁寧に分析すれば、阿片の流通の仕組みや広がりを捉えることができるだろう。
 試みとして、藤野家薬店の阿片卸し先を見ると、地元の名張や上野を中心に、奈良県域を含んだ周辺村落の医師・薬店に及び、やや離れた地域では、津や松阪、田丸(現玉城町)まで広がりを見せている。
 また、答志郡鳥羽町藤之郷(現鳥羽市)で同様に特許薬舗の指定を受けた廣野藤右衛門邸(11月登録文化財に答申)の土蔵を最近拝見したが、そこにも阿片関連の資料が残存していることを確認した。
 些細な歴史の一端ではあるが、こうした資料調査によって初めて、これまでわからなかった歴史が発見できるのである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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