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「日本武尊の陵墓」改定−壮大さ重視 周溝“新造”も


能褒野墓の工事計画図面(1880年)

能褒野墓の工事計画図面(1880年)


 亀山市田村町名越の丁子塚(能褒野王塚)は、全長約90メートルの前方後円墳である。伊勢地域では、船形埴輪が出土して全国的に有名になった松阪市宝塚1号墳に次いで規模が大きい。ただ、丁子塚は1879(明治12)年に「日本武尊能褒野墓(やまとたけるのみこと・のぼのはか)」として治定され、それ以来「陵墓」として管理されている。
 日本武尊は、『古事記』や『日本書紀』に登場する伝説上の人物で、東国からの帰還途中に「伊勢国能褒野」で病死し、そこに御陵が造られ葬られたという。それが能褒野墓の所以である。さらに、尊の神霊は白鳥と化し空高く飛び去り、白鳥は大和や河内にも止まり、そこにも御陵を築き、3陵を「白鳥塚(しらとりづか)」と称したとも記されている。
 平安時代の法典『延喜式』には、「能褒野墓 日本武尊 在伊勢国鈴鹿郡」と見られ、この頃には能褒野墓が鈴鹿郡のどこかに定められていたらしい。ところが、こうした陵墓は律令体制の崩壊や天皇家の葬法の変更などによって、次第に荒廃し、所在地も忘れ去られてしまった。
 江戸時代の中頃、国学の隆盛や尊王論の風潮とともに再び陵墓が問題とされ、各地で陵墓探索が盛んになった。能褒野墓に関しても多くの論議があった。本居宣長は1798(寛政10)年の『古事記伝』の中で触れ、高宮村(現鈴鹿市)の白鳥塚を能褒野墓の第一候補としながら、丁子塚についても人に様子を聞いて「上代の陵墓」のようと記している。しかし、1833(天保4)年の『勢陽五鈴遺響』(安岡親毅著)では、丁子塚は戦国時代の「討死ノ将ヲ葬セシ地」とした。この影響が大きかったのか、以後、丁子塚が能褒野墓の有力候補になることはなかった。
 明治期になって、政府が皇子墓の治定を推進すると、もっぱら高宮村白鳥塚と長沢村(現鈴鹿市)双子塚がその候補として取り上げられた。前者は神戸藩、後者は亀山藩が願い出て、それぞれの古墳の整備を進めた。廃藩置県後、政府は職員を派遣し現地調査を行い、1876(明治9)年1月ようやく高宮村白鳥塚を能褒野墓と治定した。
 ところが、1879年10月、宮内省はそれを改定し、今度は丁子塚を治定した。こうした陵墓の改定は少なく、皇子墓ではほかに例がない。改定の要因は何か。当時の文書によれば、丁子塚の方が能褒野墓にふさわしいと建言した者があったという。それは誰かわからないが、ともかく政府が動いた。地元に図面の提出を求め、検討の上、丁子塚を能褒野墓と定めた。白鳥塚は60メートルの円墳、丁子塚は全長90メートルの前方後円墳で「王塚」とも言われた。建言もさることながら、やはり古代伝承中の英雄として描かれた日本武尊の墓は雄大な前方後円墳の方が良いと宮内省は判断した。そして、更に壮大さを増すため、挿図のように墳丘の周りに溝や土堤を設けるよう県に指示した。しかし、丁子塚の現地には歴然とした周溝などの遺構があるわけではない。県では苦慮し、再三宮内省に問い合わせ、結局「見計ヒ」で断崖いっぱいに土堤を設け、墳丘の回りに溝を造った。これらの工事は1882年3月に完成したが、その工事記録『日本武尊御墓修繕書類』が県庁に残っており、詳しい仕様を知ることができる。
 しかしながら、最近では当初から丁子塚に周溝や外堤があったと誤解する人もいる。それは、「陵墓」で立入調査などの制約もあって調査研究が進んでいないからで、本居宣長に丁子塚の様相を伝えた坂倉茂樹の記録など、様々な関連資料を分析して、この古墳の実態を少しでも明らかにしていく必要性を痛感している。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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