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品種改良 地域で努力−名高い「島田のビワ」


『明治十一年県内物産博覧会綴』(県庁所蔵文書)

『明治十一年県内物産博覧会綴』(県庁所蔵文書)


 6月の果物と言えば、ビワである。古来、ビワ(枇杷)は文献にどう出てくるのか、『廣(こう)文庫』で調べてみた。『廣文庫』とは1916(大正5)年に物集(もずめ)高見が編纂した古書検索用の事典で、約5万点の項目に関する記事を古書から抄出して50音順に配列していて、物の歴史的な記述を知る上で非常に便利である。ビワについては、江戸時代前期の『本朝食鑑』をはじめ『和漢三才図会』、『農業全書』、『農業余話』などからの抄出が見られる。中でも、1697(元禄10)年出版の『農業全書』は、「枇杷は諸果に先立ちて熟し……大かたの土地にハ盛長してなるもの……又木の節なく直なる所、木刀にして無類の物なり」と記す。また、1809(文化6)年成立の『農業余話』には、家の近くに植えれば「火災の防ぎ」になり、種を陰干しすれば蜂に刺されたときの薬になるなどといったビワの「利」を述べている。こんな話だけでも結構おもしろい。
 随分前置きが長くなったが、三重県では松阪市嬉野島田のビワが有名であり、今回は島田のビワに関する近代以降の史料について見てみよう。と言っても、その史料は少なく、わずかに数点を発見したにすぎない。
 まず、1878(明治11)年の県内物産博覧会の出品取調書類の中に「枇杷ノ果実(頗ル大ナリト) 嶋田村」の記述があった。たったこれだけであるが、このとき既に島田のビワは実が大きくて有名であったことは裏付けられる。なお、この県内物産博覧会は、前年に東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会の県内版といったもので、こうした博覧会や品評会などは、明治期の勧業策の一つとして重要視されていたのである。
 また、明治期末年頃に三重県師範学校生が作成した「郷土誌」類(三重大学附属図書館所蔵)の一部、『豊地村郷土誌』などにも、「枇杷ハ作付約三町歩、収穫約三千貫ニシテ、附近市場ニ声価ヲ博ス」とか、「島田枇杷ヲ以テ名高シ、此地枇杷ノ栽培ニ適シ、肉厚ク味克ク、多ク各地ニ輸出ス、年額一千円、近年唐枇杷及田中枇杷ヲ栽培シテ優劣ヲ試ミシ」とかの記載が見える。明治期を通じて島田のビワが評判であり、新種栽培などの実験にも努力が払われていたことがわかる。
 さらに、島田のビワの品種改良など努力は続けられ、1936(昭和11)年4月10日の『新愛知 附録三重日報』には、優良品種接木(つぎき)や出荷統制による収益向上が報じられている。そして、1955(昭和30)年6月18日の『伊勢新聞』にも、収穫期が田植の最盛期とブツかり合うため次第に出荷数が減ったので、島田4Hクラブが農業改良普及事務所に相談してヒドロワックスという乳剤をビワに振りかけて新鮮さを保ち、田植え後に出荷する工夫をしたという記事が掲載されている。この4Hクラブは、第2次世界大戦後の農村部に組織された青少年団体である。そのモデルとなるアメリカの4Hクラブの4Hは、頭(Head)・手(Hands)・心 (Heart)・健康(Health)を意味したが、邦訳して頭(かしら)・腕(かいな)・心・健康から4Kとも言われた。
 ただ、ワックスかけはその時期だけで、のち売れ行きが良くなり、必要がなくなったという。特に1996(平成8)年には、「島田ビワを育てる会」が結成され、地域の著名な古墳名にちなんだ「兄弟(おととい)市」も開設された。毎年、収穫時期にはビワを持ち寄り、そこでの販売も始まった。
 こうした長い間の地域の努力によって、島田ビワの名声はますます高まり、「兄弟市」に並べられたビワは、1時間もすると売れ切れるという状況が続いてきた。ところが、今年は3月頃の寒さなどによって大不作らしい。地域では県内外から殺到する注文の断りに頭を悩ませておられるとのこと、来年の豊作に期待したい。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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