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外交不慣れで苦労の跡−鳥羽湾の英国人所有船事故


イギリス船海難事故関係の公文書綴(三重県庁所蔵)

イギリス船海難事故関係の公文書綴(三重県庁所蔵)


 先月、尾鷲沖でタンカーの海難事故があった。悲しいことに犠牲者も多く出た。海に面した三重県、特に志摩から熊野灘にかけての沿岸地域には江戸時代以降の海難関係史料が数多く残されている。事故が起こると、沿岸部の人たちが救助や破船の処分などを行ってきたからであるが、明治時代の海難関係史料は県庁文書の中にもわずかながら見られる。
 その一つが、1876(明治9)年8月に鳥羽湾で起きたイギリス人のダニール・ジャミソン所有船の事故と救済に関する史料である。1854(嘉永7)年の開国後、諸外国人が日本に来て様々な活動を行っており、ジャミソン(当時48歳)も横浜に在留し、廻漕業を経営していた。
 海難事故は、神戸から横浜への回船途中に起こった。彼の所有する帆前船(ほまえせん)は幅9尺(約2・7m)、長さ10間(約18m)で、乗組員は彼以外に2名であった。2名とも20歳代の若者で、神戸出帆間近に「月給七円」でジャミソンに雇われたらしい。8月12日に神戸を出帆したが、風の力だけでは一挙に航行できず、鳥羽沖を通りかかったのが10日後の21日の夜であった。鳥羽港より「凡二里半ヲ距(へだて)ル菅島沖字浪田ト申荒磯」で、これまでの東風がにわかに激しい北風に変わり、遂に破船し沈没してしまった。ジャミソンら3名は、やっとの思いで菅島海岸に泳ぎ着き、そこで漁船を頼み22日昼に鳥羽港に到着した。
 鳥羽港には三重県庁係員が出張し、「通弁」(通訳)を雇い取り調べた。その問答の記録も残っていて、ジャミソンの居住地や職業・家族などについて聞き、「貨幣ハ持合セアルヤ否ヤ」の問いには「十八円計(ばかり)所持スレド流失シタリ」と答えている。また、ジャミソンが英文で書いた懇願書もある。それには横浜まで送って欲しいという訳文が添付されており、県では救助策として横浜まで彼らを送ることになった。と言っても、陸路は四日市までで、四日市と横浜の間には既に三菱会社の定期航路が開かれ、「扶桑丸」という汽船が航行していたのである。
 海難事故のあと、8月26日までは鳥羽に滞留し、27日には人力車で津まで来た。津では東町の旅館に31日朝まで滞在した。そのときの料理献立もわかり、「アヒル」や「鶏」がジャミソンの依頼によって購入されたという。それらの金額も記され、津の滞在費は総額6円76銭であった。
 乗組員2名は津で解雇され、それぞれ家族のところに戻ることになったが、ジャミソンは二等巡査一名が付き添って31日朝四日市に向かった。やはり人力車で、津・四日市間の費用1円余りを支払った。そして、四日市から汽船「扶桑丸」に乗り込み、2日後には横浜に着いた。乗船費が4円で、汽船内での2日間の「洋食料」も4円かかった。これらの経費の支払いは、すべて県が立替払いをし、破船処理など諸々の費用を入れると総額は48円56銭3厘になった。
 政府は、前年5月に「外国船困難ノ節救助」について布告を出し、救済費用は原則船主負担とし、公務的な経費は県庁支払いとしていた。そのため、たびたび大蔵省と協議したり、前年8月に浜松沖で起きたイギリス船海難事故の例を浜松県へ問い合わすなどして「公私区分」を決定した。結局、15円7銭3厘が公費で、残金33円49銭のうち15円68銭5厘は破船の錨や鎖などの売り払い費が充当され、差引き17円80銭5厘がジャミソンの負担額となった。ただ、これに対する請求は横浜在留のイギリス領事を通じて行い、その領事への連絡も神奈川県を経由しなければならなかった。
 そうした煩雑さに加え、ジャミソンの資金繰りの関係から支払いが10円と7円80銭5厘に分割されたので、最終的な受け取りは事故から4年近く経った80年4月のことであった。その間、外務省や神奈川県へ再三協議し、開国後まだ外交に慣れていない当時の事情もうかがえる。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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