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いちはやく「村長」登場−駒田信二氏 寄贈の史料から


「村長」と記した明治3年の駒田家文書

「村長」と記した明治3年の駒田家文書


 県史編さんも進み、県史編さん室には三重県の歴史に関する史料もかなり集まった。県民等の閲覧などもあるが、県民サービスセンターの事務室や資料室の書架だけでは収納できず、一部を旧看護短大の空き庁舎の一角に保管している。それに、最近では、県内外から三重県に関係する古文書などを寄贈あるいは寄託していただくこともしばしばある。これまで御先祖が大切にされてきたものを手放されるわけであるから、当方を信頼してくださってのことである。受け取る当方も、当然のことながら、適切に保存し有効に利用していくことに大きな責任を感じている。
 こうした県史編さん室への資料寄贈の最初は、県史編さん事業を開始して4年目の1988(昭和63)年冬のことであった。東京にある国立史料館の方から、「三重県出身の作家から伝来の史料を寄贈したいという話がある。県史の編さんを始められたのなら、県で受けられたらどうか」と電話で紹介をいただいた。国立史料館には、たびたび調査に訪れていて、三重県の状況を知ってもらっていたからである。
 史料の所蔵者は、安濃郡安西村(現芸濃町)多門(たもん)出身の中国文学者の駒田信二氏で、当時、時々三重県に帰って講演会などをなさっていたので、氏の活躍はよく知っていた。中国の歴史を題材にされており、県史編さん事業には史料の確保が重要ということは十分御存知であった。特に駒田家の御先祖は多門村の庄屋を務めていて、県史編さんの史料として大いに参考になるので、ありがたく寄贈を受けることにした。
 また、実際に史料を保存管理されていたのは駒田信二氏の兄・谷 信一氏で、幼年期に谷家の御養子になられたため姓が違う。氏も東京におられ、美術史研究者として有名であった。ちなみに、1942年に著作・発行された『室町時代美術史論』では「勢州安濃津住仏師」のことにも触れ、「安濃津の如きにも仏所がある」と謙遜した表現が見られる。出身地であっただけにその表現も納得できるが、谷信一・駒田信二氏の二人が兄弟であることは意外に知られていない。現実の史料移管に当たっては、二人に何度かお会いした。さらに、1991(平成3)年には『駒田家文書 仮目録』を印刷発行したが、そのとき駒田信二氏に「御先祖のことで、表現上の不適切な箇所があれば訂正を」と、目録の草稿を送った。氏からは「歴史ですから、気にしないで事実を明確にしてください」と、激励していただいたことを最近のように鮮明に覚えている。
 最後に、約5千点の駒田家文書によって「発見」された歴史的事実のうち、一つだけをここに紹介しよう。それは、1870(明治3)年の史料によれば、駒田家の第8代当主は鈴鹿郡安知本村(現亀山市)や安濃郡草生村(現安濃町)の「村長」を務めていることである。村長という言い方は、1889年の村制施行以降公式の職名となるのが一般的であって、明治初期の通常の村では、江戸時代と同じ「庄屋」として村を管理していた。安知本村や草生村では新しい時代を迎えて、庄屋を村長に変更したらしい。しかし、1871年には戸籍法が公布され、やがて「区長」や「戸長」という職名に変わる。ごく短期間であったが、三重県では「村長」を用いた特徴的な事例である。たまたま寄贈いただいた史料群から初めて教えられ、今はもう故人となられた駒田兄弟に改めて感謝するところである。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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