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廻漕会社加入めぐり大湊苦慮−伊勢湾に東京発 初定期蒸気船


四日市廻漕会社の引札(四日市市立博物館所蔵)企画展図録『近代四日市の幕開け』より

四日市廻漕会社の引札(四日市市立博物館所蔵)企画展図録『近代四日市の幕開け』より


 伊勢湾の港に初めて定期的に蒸気船が行き来するようになったのは、1870(明治3)年の秋ごろからである。この時期、まだ東京や横浜にもガス灯や蒸気機関車(陸蒸気)などが登場しておらず、相当早い時期ということになるが、東京の飛脚問屋たちが政府の許可を得て「廻漕会社」という廻漕会社を設立し、東京と伊勢湾諸港を往復し貨客の運搬を開始した。
 同会社は、江戸時代から交通の要所であった名古屋宮(熱田)や四日市・津・松阪・大湊(現伊勢市)などを寄港地の候補として選び、候補地の飛脚問屋などに廻漕会社への加入と出張所設立の話を持ちかけた。そして、70年10月ごろには四日市・津・松阪との業務提携が成立したが、大湊はその加入と出張所設立をめぐって苦慮したらしい。県庁には当時の関係資料が残っている。それは、東京の廻漕会社から大湊へ会社出張所設立要請が来たことを受けて、山田八日市場町(現伊勢市)などの商人3名が度会県庁に提出した設立許可願いである。同会社への加入や出張所設立には「身元金」を納めることが必要で、「千両」という大金であるが、大湊に出張所を設けなければ、物資が蒸気船の寄港する松阪へ流れてしまい、地元に不利益が生じるので、やはり大金を出しても大湊に廻漕会社の出張所を設けたいという。時流に遅れまいとする地元の願いが伝わってくるが、出張所が設置されたという記録はない。また、別の資料でも四日市などのように出張所の存在をうかがえず、結局、大湊に出張所は開設されなかったようである。
 ところで、この廻漕会社の営業内容については、これまであまり知られていない。そこで、県史編さん収集資料から四日市北納屋町に設立された四日市廻漕会社を例に少し見てみた。航路は、写真の引札のように宮・四日市間を毎日航行し旅客輸送を目的とした近距離航路と東京・横浜を結ぶ航路があった。後者の場合、たとえば72年当時に四日市港へ出入りした主な蒸気船は、貫効丸・知多丸・武蔵丸・清渚丸という船で、どの船もだいたい月1回〜2回寄港した。旅客輸送もしたが、中心は貨物であった。主要な積み荷としては、輸出品が菜種油・木綿・茶のほか傘・万古焼などの雑貨で、輸入品には干鰯や〆粕などの肥料や鰹節・唐糸などが見られた。東京・横浜までの運賃は、米100石で60両、酒1樽は銀24匁、白木綿100反で銀45匁、茶は大櫃1荷で銀28匁といったように品柄によって設定され、それに加えて荷物1荷につき銀1匁5分の手数料を徴収していたこともわかった。
 こうした廻漕会社の営業も、当初は蒸気船による運送日数の短縮などで好調であったが、それも長くは続かなかった。1936(昭和11)年発行の『四日市港史』には、政府と強く結びついた三菱汽船会社の台頭によって業績が悪化し、76年には四日市・東京間の航路を廃し、北納屋町の出張所も店を閉じたとある。ただ、「四日市廻漕会社」の名は、『三重県統計書』によれば81年まで確認でき、5年ほど異なるものの、いずれにしても短命であった。
 しかしながら、近代の夜が明けて間もない時分に伊勢湾の港が蒸気船で東京・横浜と結ばれ、これが稲葉三右衛門による四日市港改築事業の発願の動機にもなるほど、この廻漕会社が当時の人々に強いインパクトを与えたことは間違いなさそうである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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