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亀山藩士もいた赤報隊−世直しへ先鋭化 新政府と対立


長野県下諏訪町にある墓碑(魁塚(さきがけづか)下段右から3人目に西村謹吾の名がある

長野県下諏訪町にある墓碑(魁塚(さきがけづか)下段右から3人目に西村謹吾の名がある


 1960年代後半、明治100年記念の様々な事業が行われ、これを契機に新資料が発掘され明治維新前後の研究が大きく進んだ。映画や小説の題材ともなり、維新の群像に脚光が当たることになった。中でも志半ばで斃れた維新の群像坂本竜馬や高杉晋作あるいは最後まで幕府に殉じた近藤勇や土方歳三たちへの人気は未だに衰えていない。映画『赤毛』でも取り上げられ、偽官軍として断罪された赤報隊長・相楽(さがら)総三(そうぞう)もその一人であろうか。 
 『三重県史』資料編(近世4下)には、「赤報隊一件」として各種の記録が採録されている。それによれば、1868年(慶応4)1月25日夕刻、滋(しげ)野井(のい)侍従を大将とする総勢300人ほどの赤報隊の軍勢が美濃方面から桑名へやってきた。また、綾小路(あやのこうじ)卿を擁する別の一隊も名古屋から海路桑名に到着したとある。このとき既に桑名藩は新しい藩主を立てて恭順の意を示し、28日には亀山藩などが桑名城を接収する。東海道鎮撫総督府軍は四日市・桑名に進駐しており、街道筋は騒然とした状態であった。そこへ赤報隊が現れたのである。京都には赤報隊に金品を略奪されたという風評が伝わっており、公卿以外は処罰せよとの命令が届く。亀山藩や肥前(現長崎県)大村藩によって捕縛され、四日市三滝川原で7名が斬首されたことが記録されている。主だった者が京都へ呼び返され、ほかは追放された。これが北勢での赤報隊事件の概略である。
 では、赤報隊長相楽総三(1839〜68)とはどのような人物であったのだろうか。下総(現茨城県)の郷士出身で本名を小島四郎といい、父の代に財を成し江戸赤坂に移り住む。彼は、幕藩体制が急速に崩壊していく世相の中で剣術・歌学・平田派国学を学び、やがて尊皇攘夷派の武士と交友を結んで関東での武装蜂起や江戸市中での騒擾にも関わり、草莽の志士へと変貌していく。
 京都では、67年10月の大政奉還から12月の王政復古の大号令により徳川幕府は崩壊する。翌68年1月3日鳥羽・伏見で戦端が開かれたが、旧幕府軍はたちまち敗走する。新政府はただちに征討軍を編成して江戸へ進軍するが、本隊に先駆けて東海道・東山道(中仙道)・北陸道などへいくつかの先鋒隊を派遣する。赤報隊もそのひとつで、滋野井公寿(きみひさ)・綾小路俊実(としざね)という若い2人の公家を擁して結成されるが、1番隊に相楽総三とその同志、2番隊に鈴木三樹三郎ら新撰組脱退グループ、3番隊に油川練三郎ら近江水口藩士たちとほとんど何の関係もない寄り合い所帯であった。先に述べた四日市で処刑されたのは2番隊・3番隊の一部である。
 相楽の1番隊は伊勢方面へは来ず、嚮導隊(きょうどうたい)と称して東山道を木曽から信濃へと下る。相楽自ら建白し裁可された年貢半減令を村々へ触れ、天領や幕府側諸藩に勤皇の誓詞を提出させ、食糧や軍資金や武器の提供を受けている。こうして、相楽の言動は急速に世直しへと先鋭化していった。しかし、年貢半減令は新政府の財政がたちまち窮することであり、体制を整備させつつあった新政府の方針とは相容れなくなっていく。軍規違反を理由に下諏訪で東山道総督府に捕縛され、斬首される。68年3月3日のことであった。赤報隊処分については、表向きの理由とは別に、新政府高官の隠された意図があるとの指摘もある。70(明治3)年、早くも墓碑建設請願書が伊那県(現長野県)から兵部省へ提出され、許可されたことも単なる「偽官軍」ではないことの傍証の一つと考えられる。埋もれた草莽たちの復権と再評価が待たれる。
 ところで、下諏訪で処刑された8名の中に西村謹吾という人物がいる。西村は、相楽とは関東以来の同志で、赤報隊結成後は1番隊に属して最後まで相楽と行動を共にした一人である。信州大学高木俊輔教授の研究によれば、伊勢亀山藩脱藩の武士で、本名は山本鼎(かなえ)という。しかし、わずかな墨蹟が残ること以外はほとんど不明であり、新資料の発見と研究の深まりが期待される。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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