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税体系変化に苦心−四日市港の維持事業


稲葉三右衛門が修築した堤防(1884年竣工)の見える写真絵はがき

稲葉三右衛門が修築した堤防(1884年竣工)の見える写真絵はがき


 江戸時代の港は、河口付近に土砂が堆積した砂嘴(さし)を利用したものが多かった。そのため、絶えず堆積する土砂を浚渫し、港の機能を維持することが重要であった。
 今回の話の舞台となる四日市港では、こうした港の浚渫や修繕などの維持は、船問屋や干鰯(ほしか)問屋などの有力な商人の手によって取り仕切られていた。それにかかる費用を賄(まかな)うために、入港する船舶の積載能力(積石数)に応じて金銭を取り集めた。例えば、500石以上の大船なら銭300文、500石以下なら銭200文というように課し、これを「川役銭(かわやくせん)」といった。
 ところが、1854(嘉永7、この年「安政」に改元)年6月14日、大地震が発生した。のちに「安政伊賀地震」と言われるもので、四日市も被害家屋約2000軒に達し、「人死凡(およそ)七百人余、怪我人ハ数不知」という甚大な被害をもたらした。このとき、港にもかなりの損壊箇所があり、地盤が2尺(およそ60p)ほど沈下したという。この地震やのちの再三にわたる津波高波によって港は船の出入港も困難な状態となった。そのため、63(文久3)年に、大がかりな修繕が行われた。工費は600両に及び、それでも荷揚げ場所の石積みなどは修繕できなかった。すなわち、工費がこれまでの川役銭の取立て方法だけでは到底追いつかなかったからである。
 そこで、65(慶応元)年、稲葉三右衛門や田中武兵衛ら廻船問屋・干鰯問屋の代表者らは、当時桑名や津、名古屋といった近隣の港が行っていた方法で川役銭を取り立てる許可を信楽代官所へ願い出た。それは、入港する船にはこれまで通り船体の規模に応じて徴収するが、出港する場合にも、干鰯・米・麦・大小豆・糠なら1俵につき銭1文ずつ、油・酒・味噌溜・酢なら1樽に銭2文ずつというように、積み荷の種類と量に応じて課すというものであった。
 しかし、こうした川役銭のような港独自の慣行は、73(明治6)年1月、政府の命によって、「国内一般ノ運輸ヲ塞キ、容易ノ利潤ヲ妨ケ、終ニ物価ノ不平均ヲ醸成」するという理由で廃止された。
 ただし、「従前通船無之(これなき)土地ヲ新タニ堀割運輸ノ便ヲ開」いた場合は、工費償却のために期限付きで「通船ヨリ口銭」などを取り立てることを認めていた。稲葉三右衛門は、その条文に注目して四日市港修築事業を起こした。四日市港の修築事業については、既に当欄の58でも紹介したが、地震被害の修復工事を含めた莫大な工費を出入りする船舶から「口銭」を取り立てて償却しようとしたのである。
 まず73年4月に三右衛門が申請した償却方法は、波止場と灯明台の建築費4万5000円について、輸出入物品1個に平均70文を8年間課すというものだった。これによって年間2500円の収入を見込んだ。
 この方法は、かつて65年に三右衛門らが申請した川役銭の徴収方法を輸入物品へも適用したもので、大規模な港維持のためには有効的な方法ということを経験的に知っていたのである。
 しかし、政府が想定した「口銭」は船の規模によって課す65年以前の川役銭程度であったため、三右衛門に償却方法の見直しを求めた。当時、政府は地租改正など近代的税体系を構築途上であり、一地方で一個人が課税によって莫大な収益を得ることは、認められなかったのであろう。現に、当時行われた他港の浚渫・修繕費の償却方法は、77年の和歌山港、79年の愛媛県長浜港、85年の津港の場合も、船の積石数に応じて「口銭」を徴収することが許可されただけであった。
 このように、江戸時代には認められた港維持の方法が、急激に変化する時代のなかで、わずか数年の間に通用しなくなったのである。そのため、三右衛門の事業構想に大きな狂いが生じ、工費のやりくりに追われることになるのである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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