トップページ  > 発見!三重の歴史 > 10年がかり動機は謎−四日市の小林新田開発

10年がかり動機は謎−四日市の小林新田開発


小林新田の高札写し及び『養豚所出入帳』

小林新田の高札写し及び『養豚所出入帳』


 近年の市町村合併により新しい市町村名が誕生しているが、江戸時代の場合は新田開発により新しい村落名が誕生する場合が多く、現在でも○○新田という大字・小字名として残されている。今回紹介する新田も、新たな地名の誕生につながった。時期的にも、新田開発の最盛期であった江戸時代前期から中期にかけて開発されたものではなく、その意味でこの新田開発は珍しい事例である。
 それは四日市市の南西部に位置する小林新田で、開発の中心人物・小林藤十郎の名前から名付けられ、幕末から明治期にかけて行われたものである。
 そこで、『万仕入控帳』という四日市市小林町の小林家に所蔵されていた史料から、その経過を追ってみよう。
 新田開発は、1864(文久4)年3月18日に近江国信楽代官所へ新田開発の願書を提出したことから始まる。当時、小林新田の地は日永野(ひながの)と呼ばれ、日永村・八王子村・室山村・西日野村・東日野村・山田村の入会地となっていた。当然のことながら、開発にあたって近辺の村々の承諾を得る必要があり、開発願いに至るまでの準備も大変であったと思われる。代官の開発許可が下りたのは翌年3月3日で、藤十郎請地(うけち)面積は71町9反5畝27歩、そのうち、試し開発は6町、残りは追々開発することになった。5月20日には信楽代官所の役人・藤尾東作が家来を連れて見分にやってきた。そして、26日には日永野の新田のうち、藤十郎請地分を「小林新田」としたのである。
 1865(慶応元)年8月には、「小林新田開発場内にて、土砂・芝草はもちろん松木枝葉たりとも伐り取ってはならない」という内容の信楽代官所の高札が立てられ、その年から新田にかかる税金を信楽代官所に上納した。
 67年には隣村との地境を確定した。そして、藤十郎は68(明治元)年11月19日には「国益掛り」、すなわち産業の振興役を仰せ付けられ、69年には忰(せがれ)を藤右衛門と改名の上、分家し、小林新田の管理をさせることにした。
 70年の閏10月11日には、小林新田に芝居小屋を建てて10日間興行し、翌年10月にも曲馬、今でいうサーカスを7日間開催した。これが小林新田の披露で、芝居やサーカスで多くの人を集めたのである。
 その後も開発は継続されているが、結局、73年時点で50町余、租税1円98銭1厘8毛を納入する新田となった。と言っても、水田はなく、野菜等を栽培する畑方が少々で、桑畑と松苗や柏の木の苗が植えられたものであったらしい。
 この小林新田に関しては不明な点もある。その一つは新田開発の動機である。最低でも200両もの金額を投資している。採算の見込みは立っていたのか、水田にはなっていない。何をねらった開発であったのか、史料にはそのことが全く書き記されておらず、現在は謎である。
 また、ほかの史料によると、明治期に「養蚕」や「養豚」も行われたようである。養蚕業は各地で当時盛んに進められていたが、豚は、古来からの家畜を食用しないという我が国の民族性から、江戸時代にほとんど飼育されていない。明治期になって少しずつ飼われ出したわけで、小林家には73年8月の『養豚所出入帳』という史料も見られる。おそらく三重県では初期の例と思われるが、当時の県内の養豚業の状況もわからない段階であり、今後これらの調査にも努めていきたいと考えている。

(県史編さんグループ藤谷 彰)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る