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年貢に契約社会の萌芽−徴収高と方法 村の意向反映


享和3(1803)年の日置村の免札

享和3(1803)年の日置村の免札


 国民生活を維持するために必要なものの一つに国民が支払う税金がある。江戸時代、それは「年貢」という形で百姓から徴収されていた。当時、多くの人々が農業を生業(なりわい)としていた関係もあり、年貢はそのほとんどが「米」であった。米が取れない地域では貨幣や現物による税の徴収も行われた。
 年貢の徴収方法としては、基本的に検見取法(けみとりほう)と定免法(じょうめんほう)がある。検見取法は、毎年の作柄を見た上で年貢高を決定するもので、今年のように日照不足で稲作不良のときには年貢高が減じられるが、豊作時には年貢が増えた。後者の定免法は過去の年貢高を参考にしながら数年間年貢高を固定するもので、それ以上に収穫があった場合は百姓の取り分であり、百姓の耕作意欲を喚起することになった。一般的には、定免法は江戸時代中期の八代将軍以降行われたように言われ、年貢は一方的に領主層が決め、百姓は言われるがままに年貢を納めたように思われている。
 ところが、実際には、江戸時代の年貢の徴収にはさまざまな形があり、一方的ではなかった。たとえば、鳥羽藩では徳川吉宗以前から春に年貢高を決定する「春定法(はるさだめほう)」による年貢徴収を行っていた。また、津藩やその支藩であった久居藩では江戸時代中期以降には領主は百姓との間で一種の契約を行い年貢を納入させる「請免法(うけめんほう)」という定免法を採用していた。
 それでは、久居藩領であった一志郡日置村(現一志町)の例でその様子をながめてみよう。文久3(1863)年は年貢率見直しの年次であったらしく、まず同年2月に5か年間定免になるように村役人たちは郡奉行(こおりぶぎょう)へ宛てた願書を大庄屋(おおじょうや)経由で提出した。それに対し、4月、郡奉行からは文久3年から3か年平高(ならしだか 年貢高を基準に算出した津藩・久居藩の年貢を課する際に用いられた石高)の35%を納めるよう通達があった。村では、これを了解し、同月付けで請書(うけしょ)を郡奉行へ差し出したが、その後、久居藩では村の状況を勘案し年貢免除を行うという方策を施行した。今でいう減税施策である。日置村では、村全体に借財があったため、1・5%の年貢免除が実施された。結局33・5%の年貢で、当時の日置村の石高437石8斗の3分の1の146石7斗を納める必要があった。これを約50戸の農家で分担したようであるが、これは「本途物成(ほんとものなり)」、いわゆる本税で、そのほかに付加される税がいくつもあった。
 いずれにしても、久居藩では春にはその年や数か年の定率の年貢高が決定していた。また、その決定方法もまず村側から年貢の徴収法を願い出て、修正はあるものの、それを藩側が承認する形を取っていた。ここからは、領主層が百姓から一方的に年貢をするという姿は見られない。
 むしろ、領主が村の意向をある程度聞き入れた上で、村と契約を結び年貢を納入させた。近代につながる契約社会の萌芽が見られ、当時の政治体制や社会がこのような形の年貢の徴収法を生み出したのであろうが、こうした手段によって、年貢の徴収をスムーズに行おうとしたのかもしれない。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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