事態終息に1カ月半−「役用日記」から見た安政伊賀地震
安政伊賀地震の死者に対する供養が行われた観音寺(鈴鹿市神戸2)
東海地域は、東海地震や東南海地震の防災強化地域に指定され、各自治体をはじめとしてそれぞれの地域で防災計画が立てられ、訓練も実施されている。
ここでは、嘉永7(1854)年、すなわち安政元年の6月に発生した「安政伊賀地震」について、神戸藩家老の御子孫の家に残された「役用日記」からその様相を追ってみたい。
これは、6月15日未明に発生した木津川断層を震源とするマグニチュード7・2の地震で、その被害は伊賀はもちろん、亀山・鈴鹿・津・四日市・桑名に及んだ。この地震については多くの研究成果があり、各地域の地震被害の実態が把握されている。しかし、時間を追っての地域の対応までは十分に記されていない。ましてや支配者層である武士階級がこの地震にどのように対応していたのかはあまり知られていないのが現状である。
さて、この日記によると、大地震の前日の13日には神戸(現鈴鹿市)にも「昼後両度地震有之」と前震があったことがわかる。そして、14日には「同夜正八ツ時大地震」と日の午前2時ごろに大地震が起きた。
そして、日記には続けて神戸藩領の村々や寺院の災害の様子が書き留められている。15日にも余震と思われる地震が度々発生し、同時に町方では野宿の者の手当を行っている。そして、家老は16日には町方の状況視察を命令され、神戸町内を巡回した。その後も余震は続くが、その回数は徐々に減少してきたようである。
藩では、19日になって町方で家が倒れ難渋している者の救済についての相談が始まった。当初は50俵の米を下付する計画で、まず50俵の米の一部を売り払って20両に換金し、それを2分ずつに分け名主を通じて家屋が壊れた者40人に渡し、残りの米は「極難渋者(ごくなんじゅうもの)」320人ほどに1日大人3合、子供2合の割合で渡す計画であった。しかし、23日に最終計画が打ち出され、町方の救済策が確定した。それによれば、「救い米」は藩の貯蔵していた兵粮米17俵分を取り崩し、難渋者300人に対し、「名主」の立ち合いのもと町会所にて大人2合、子供1合、独身者3合の割合で24日から7月3日まで施行することとなった。余震はこの間にも続いていた。
さらに、7月4日には「即死者怪我人」の調査が行われた。神戸の町では富山の薬売りや子供を含めて即死者11人、怪我人4人であった。また、9日には町方の倒壊家屋の調査もなされた。それに、19日には、この時期に多かった夕立や落雷、地震鎮静の祈願のために祈祷を行っている。そして、閏7月2日には、地震後に大工賃銭や日雇い賃銭が高騰したのか、賃金規制の触れを出している。この触れの発給以後地震に関する記事はしばらく出てこない。地震発生から一ケ月半、ようやく大地震の処理が終息したのであろう。
ただ、8月25日には、地震による即死者の「百箇日」ということで、藩主催の施餓鬼が観音寺で執り行われている。藩主催の施餓鬼が行われたとは若干驚くが、それほど、藩にとっても地震の後遺症は大きかったのである。
(県史編さんグループ 藤谷 彰)