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豊かな暮らし願い−「金のなる木」の図


『かねのなる木乃図』(坂口 茂氏所蔵)

『かねのなる木乃図』(坂口 茂氏所蔵)


 景気回復の待たれる昨今、給料ダウンなどに伴って生活費や小遣いの切り詰めを余儀なくされる。そんなとき、「金のなる木」でもあったらという気持ちにもなる。「カネノナルキ(黄金花月)」という観葉植物もあるが、江戸時代には「金のなる木」の図が印刷され、神社に奉納されたり、人々に配られたらしい。
 先日、津市内の個人所蔵資料の一部を拝見していたところ、その中から2枚の「金のなる木」の木版刷りを発見した。そのうち、1枚は津で刷られたものである。天保11(1840)年の印刷で、「楽斎平松正愨(まさよし)識」「八十五翁 山崎義故拝写」とある。楽斎と号す平松正愨は、儒学に通じ、津藩校有造館の新築に参画し、のちに督学になるが、天保9〜12年には津藩の奉行を務めていた。また、山崎義故も津藩の直臣で、書をよくした。天保7年に平松楽斎によって版行された『もしほぐさ』は山崎義故がその版下を担当しており、『かねのなる木乃図』も、このコンビで刊行されたわけである。
 印刷された『かねのなる木乃図』は、「しやうぢ木(正直)」を根幹に据え、その上に「じひ(慈悲)ふか木」・「よろづ程のよ木」で幹をつくる。左側は下から「かない(家内)むつまじく」「よふせう(養生)よ木」「ついへ(費え)のな木」「かせ木(稼ぎ)」の枝を出し、右側も同様に「ゆだん(油断)のな木」「しんぼうつよ木」「いさぎよ木」「あさお木(朝起き)」の枝となっている。こうした構図は、もう1枚の大阪心斎橋付近の「達磨(だるま)堂」が印刷した「金銀(かね)乃なる木」でも同じであって、全国にかなり流布していたらしい。平松楽斎識の賛にも「右の図或人の秘蔵せしを借り得て写さしめ」とか「此図先年江戸人某より伝来」とある。原図が江戸からもたらされ、そして、「親しき人々にもおくる事」となったというのである。
 それでは、印刷された『かねのなる木乃図』が実際にどう配られたのかであるが、それは平松楽斎の日記『照心日乗』(天保11年9月1日〜11月28日)から知ることができる。幸いにも、この日記は津市教育委員会の手で活字翻刻されているので、関係箇所を拾ってみた。まず、10月18日に「金のなる木摺立百九枚、壱枚五厘ツヽのわり……此初を出雲殿所望』とある。図は109枚刷られ、藤堂出雲がこれを最初に所望したという。そして、11月17日に白山権現(現白山町)、翌18日には若宮八幡宮(現美杉村)へこの『かねのなる木乃図』を奉納した。さらに、誰がその図を所望し、誰に与えたかの記載も見られ、郡奉行として雲出川上流域の農山村を検分する傍ら、図を配ったのである。
 これには、天保期は飢饉の年が多く、平松楽斎は民政家として人々の暮らしを少しでも良くするため随分心を痛めていたという背景があった。天保7年の「天保の大飢饉」のときは、近辺で採集できる野草の調理法を記した『食草便覧』1500冊を配布し、人々に飢饉に耐える実践を説いている。この『金のなる木の図』は、飢饉が続く中、人々に暮らし方を説得する格好のものであったのであろう。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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