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「お蔭参り」に施しさまざま−村々への「触れ」にも地域差


参宮人の宿泊を認めた触書き(駒田家文書「御用状写帳 二」)

参宮人の宿泊を認めた触書き(駒田家文書「御用状写帳 二」)


 伊勢神宮が鎮座(ちんざ)する伊勢市は、古くから信仰の対象や観光の名所として全国的に有名で、今日でも多くの観光客が訪れている。
 今回は、江戸時代に集団で伊勢参宮をする「お蔭参り」に際し、各藩が参宮人に対してどのように対処していたのかを、1830(文政13)年閏3月ごろから始まった「お蔭参り」に焦点を当てて見てみたい。
 文政の「お蔭参り」については、数々の先行研究があり、それによれば、阿波国から始まった伊勢参宮は全国に広まり、数ヶ月で総勢500万もの人が参宮したと言われている。『三重県史』資料編近世4(上)でも、この「お蔭参り」に関する資料をいくつか掲載した。そこからは、旅人に施行(せぎょう)した品物や群参の人数、さらに宿泊所の記録では、いつ頃どのような人たちが、どこからやってきたのかなどの実態を把握することができる。
 ところで、このような「お蔭参り」に対して、各藩ではどのように対応したのであろうか。それを村々に残る「御用留」からながめてみよう。
 伊勢別街道に近い久居藩領多門村(現芸濃町)の「御用留」閏3月14日付けの大庄屋から村への触れには、「参宮人が多く、旅籠屋での宿泊に差し支える場合は、宿続きの村方に宿泊させるようにし、難渋している者がいたならば、志のある者が宿泊させてもよい」とあり、同時に「火の用心」「農業の手抜きがないように」との記述が見られる。
 また、藩から村への触れでは、「参宮人が多く、旅人や難渋者への施行は、奇特なことである。中には施行を進められ、やむを得ず行っている者もあるが、それは心得違いである。施行駕籠も異様な客には出してはならない。ただし、病人や足が痛く歩行困難な旅人に施行することはよい。もちろん、農業に差し支えないように心得るように」とある。多少、藩と大庄屋との間で村への触れの内容が違うが、いずれも困っている旅人への施行を認め、農業に差し障りがないように心がけることとしている。
 また、伊勢国紀州藩田丸領でも、「銘々門に立つ者へ合力等を致すように」「宿に困る者については、明家を用意し無賃にて泊まらすように」「施行は心次第、多少によらず施すように」などの通達が見られる(『玉城町史』下巻)。一方で、田丸代官からの各村落への触れには、「参宮人が多く、往還筋の飯米が差し支えるため、領内での米の売買は認めるが、他領への米の移動は禁止」とある。ただ、同じ紀州藩尾鷲組大庄屋記録には、「お蔭参り」に関する記述は見られない。
 これらのことから、同じ藩であっても、地域差によって参宮客への対応が異なったことがわかる。
 最後に、これらを迎え入れる神宮領の資料を見てみると、閏3月ごろの記事に「参宮人で病気になり難渋している者は介抱すること」「宿がない難渋者に対する宿施行を行うこと」「旅籠屋の宿泊料を安くすること」「商人が諸色値段を高くしないように」などの触れが、宇治会合から各村に対して出されている。伊勢神宮のお膝元では、こうした参宮人を迎え入れるための準備を行っていたのである。
 このように、藩や地域によって「お蔭り」の参宮人への対応もさまざまであり、そこにはいろいろな形の交流があったと思われる。今回は、ほんの一部の事例であるので、今後、さらに多くの記事の発見に努めていきたい。

(三重県史編さんグループ 藤谷彰)

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